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90歳の北斎が、死の間際に望んだこと。

旧暦4月18日は北斎の命日です。

嘉永2年(1849)、北斎は数え90歳となりました。この頃の北斎は、浅草聖天町(しょうでんちょう)、現在の東京都台東区浅草6丁目にある、遍照院(へんじょういん)という浅草寺の支院の境内にあった狭い借り長屋に住んでいました。浅草寺の雷門から、北東に直線距離で1キロ弱のところ。昨年に引っ越してきたばかりでした。

嘉永2年(1849)、北斎は病にかかります。薬を飲んでも良くなりません。医者がひそかに北斎の娘・お栄に伝えたところでは、「老病」、すなわち老衰なので、治療することができないと言います。

同二年、翁病に罹り、医薬効あらす、是よりさき医師竊に娘阿栄に謂て曰く、老病なり、医すへからすと、
     ―飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、明治26年(1893)

嘉永2年(1849)4月18日、北斎は亡くなります。お栄が、北斎の門人である府川北岑に送った死亡通知(島根県立美術館・永田コレクション)によれば、「今暁七ツ時」、すなわち明け方の4時ごろのことでした。

北斎は死の間際、こんな言葉を残しています。

翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめはといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめは、真正の画工となるを得へしと、言訖(おわ)りて死す、
     ―飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、明治26年(1893)

あと10年、いや5年の命を与えてくれば、本物の絵描きになることができるのに、と。北斎は90歳という年齢でありながら、亡くなる瞬間まで、もっと長生きして、絵を描きたいと願ったのです。

はたして、北斎は、本当にこのような言葉を亡くなる間際に述べたのでしょうか。引用した飯島虚心の『葛飾北斎伝』の刊行は明治26年(1893)。北斎が亡くなってから44年も後のことです。

しかしながら、『葛飾北斎伝』には「門人およひ旧友等来りて、看護日々怠りなし」とあるように、門人や友人たちが北斎の看護をしていたので、北斎の最期を看取った人がたくさんいてもおかしくありません。また『葛飾北斎伝』では、北斎の葬儀に参加した人にも直接聞き取り調査をしているので、確かな話とみて間違いないでしょう。

そもそも、北斎は本当にこのようなことを言いいそうです。

天保5年(1834)、北斎が75歳の時、『富嶽百景』初編の跋文で、自らこのような文章を書き記しています(※句読点を適宜追加)。

己六才より物の形状を写の癖ありて、半百の比より数々画図を顕すといへども、七十年前画く所は実に取に足ものなし。七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟し得たり。故に八十才にしては益々進み、九十才にして猶其奥意を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)。百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし。 画狂老人卍筆

私は六歳の頃から物の形を写生する癖があって、50歳の頃から数々の画図を発表してきたが、70歳より前に描いたものは、取るに足らないものであった。73歳になって、鳥獣虫魚の骨格や草木の成り立ちを理解できた。したがって、80歳でますます成長し、90歳でさらにその奥義を極め、100歳で神の域に達するのではないだろうか。100何十歳ともなれば、点や骨組みだけで、生きているような感じとなるだろう。願わくば長寿の君子よ、私の言葉が偽りでないことを見ていてください。

75歳の時点で、これまでの自分がまだまだであり、さらに成長することができると、多くの人が目にする刊行物で高らかに宣言しているのです。

75歳というのは、当時からしたら長生きです。他の浮世絵師、たとえば歌川広重は62歳、歌川国芳は65歳で亡くなっていますし、かなり長生きであった歌川国貞でも79歳で亡くなっています。75歳の北斎は、それでもまだ30年以上生きたいと願っているのです。

その熱意は、それから14年が過ぎた89歳になっても全く変わっていません。弘化5年(1848)、亡くなる一年前に刊行された『画本彩色通』初編の跋文で、北斎は自ら以下のように記しています。

図1

九十歳よりは画風を改め百才の後にいたりては此道を改革せんことをのみねがふ長寿くんしわが言のたかわさるをしりたまふべし

九十歳より画風を改め、百歳を過ぎたらこの道を改革することを願っている。長寿の君子よ、私の言葉が間違っていないことを知ってほしい、と。

余命が幾ばくもないにも関わらず、北斎は、90歳になってもさらに画風を変えようとしており、さらに、100歳まで生きることを考えています。亡くなる直前に、あと10年、いやあと5年あれば本物の絵師になれるのにと言ったのは、これまでの言動と一致するのです。

ちなみに、こちらは北斎が亡くなる年に描いた、「雨中の虎」(太田記念美術館蔵)という肉筆画です。

325 葛飾北斎1

体をくねらせて空に向かって咆哮する虎、あるいは激しく降り注ぐ雨が、北斎の直筆によって描かれています。

画面の右下には「九十老人卍筆」のサインがあります。北斎は4月18日に亡くなっていますので、亡くなる3ヶ月半前までには、この縦120.5㎝、横41.5㎝もある大作を仕上げていることになります。しかしながら、北斎はこれでも描き足りるということはなく、もっともっと絵を描きたいと思っていたことでしょう。

325 葛飾北斎2

北斎のお墓は、誓教寺(東京都台東区元浅草4-6-9)にあります。ぜひ一度、北斎のお墓参りをしてみてください。

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※年齢はすべて数え年で表記しています。

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文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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