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北斎が自分の孫を「悪魔」と呼んだ話

歴史に名を残すような芸術家だとしても、私生活が順風満帆とは必ずしも限りません。あの葛飾北斎にしても然りです。北斎には素行の悪い孫がおり、70~80代の頃、さんざんに苦しめられていたのです。

北斎の長女である美与は、北斎の門人である柳川重信という絵師と結婚し、男の子を産みます。男の子の名前は分かっていません。生まれた時期も不明ですが、北斎や重信の年齢から推測すると、文化6年(1809)前後、北斎が50歳前後に誕生したと思われます。(安田剛蔵氏は文化5年頃、林美一氏は文化8年頃と推測。)

しばらくして、美与は柳川重信と離縁し、息子を連れて北斎の元に出戻ってきます。北斎もやはり人の子。孫のことはとても可愛かったようです。大事に育てはするのですが、この孫が大きくなるにつれて問題を起こすようになってしまいます。

女子は柳川重信に嫁したるか不縁にてかへりしより。父の許にをり。又嫁せす。この女子のうみたる外孫を。北斎寵愛して。養育したるか。人と成るに及て放蕩之。
   ―曲亭馬琴『後の為の記』(国立国会図書館蔵)

飯島虚心の『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)に紹介された北斎自筆の手紙によれば、文政12年(1829)春、すなわち北斎が70歳の頃から、孫がさまざまな悪事を企んだことで借金取りがやってくるようになり、尻拭いをさせられ、勘当してしまおうという状況に何度もなったといいます。孫は20歳前後の年齢だったのでしょう。母親の美与はもう亡くなっていたようですので、北斎が一人でその困難に直面することになります。

去春より孫放蕩に付、数々悪法をかゝれ、殊に下品のドラもの、始末屋よりのかけ合等にて、いろいろ尻をぬくひ、勘当も度々申出候処、幡随院長兵衛、折々出現仕、ヤレ、月迫の、今一応のと、難儀は、老人一人にて、
   ー飯島虚心『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)

文政12年(1829)といえば、その翌年となる天保元年(1830)頃から、代表作となる「冨嶽三十六景」が刊行され始めます。「冨嶽三十六景」の構想を練る大事な時期でありながら、北斎は孫のしでかした借金の尻拭いをしなければならない状況だったのです。

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しかし、さすがに対処がしきれなくなった北斎。天保元年(1830)正月、孫を父親である柳川重信に引き渡すこととします。孫は上州高崎より奥州へ連れて行かされたそうですが、途中で逃げ戻って来やしないかと、北斎は心配でたまらなかったようです。曲亭馬琴によれば、孫は鳶になると言って重信の家を飛び出したというので、その心配も的外れではなかったのでしょう。

漸々当正月十二日、当人父柳川重信へ引渡し、当時は上州高崎より奥州へ連れ参候得共、今にも途中より逃げ帰り候哉と、未不案心に候得共、まづしばらくは、ホツト息をつき罷在候。
   ー飯島虚心『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)

よりてこれを重信に返せしに。鳶の者にならんことを欲りして。実父の家にもあらすなりにき。
   ―曲亭馬琴『後の為の記』(国立国会図書館蔵)

しかも天保3年(1832)には、実の父親である柳川重信が病気で亡くなってしまい、再び孫の尻拭いは北斎ということになります。北斎は天保5~6年(1834~35)頃、浦賀に潜居していましたが、その理由の一つとして、孫の放蕩が原因だったのではないかと推測されています。

又一説には、柳川重信の子、即北斎の孫某か、放蕩より事起りて、逃亡せしともいふ。(上巻53~54頁)
梅彦氏の話に、かの翁が浦賀に潜居せしも、蓋し此の孫を避けたるならんと。(下巻24頁)
   ー飯島虚心『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)

一方、それに近い頃、北斎は孫を魚売りとして店を持たせ、結婚もさせたと、北斎自身の手紙にあります。どれほどトラブルを被っても、北斎は孫のことを見捨てることができなかったようです。

さて愚老どら者にふり込れ、夫より人足場、彼是と評議仕、色々打寄相談之上にて、引受人等出来仕、店を為持、肴売と相成、両三日中には、ヤツト女房を、もたせ候手筈に候
   ー飯島虚心『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)

しかし北斎の苦悩はそれで終わることはありませんでした。8年ほど経った天保13~14年(1842~43)頃、北斎は毎朝小さな紙に唐獅子や獅子舞の図を描き、丸めて家の外に捨てています。この頃の北斎は83~84歳頃。ある人が、その理由を聞いたところ、北斎は「これ我が孫なる悪魔を払ふ禁呪なり」と答えたそうです。

北斎翁、本所榿馬場に住せし頃、毎朝小き紙に獅子を、画きまろめて家の外に捨てたり、或人偶拾ひ取りて披きみれは、獅子の画にして、行筆軽快、尋常にあらす、よりて翁に就き賛を請ふ、翁即筆を採りて、年の暮さてもいそかし、さはかしし、或人更に翁に問ふ、何の故に毎朝獅子を画きて捨て給ふや、翁の曰く、「これ我か孫なる悪魔を払ふ禁呪なり」と、故杉田玄瑞氏の話なるよし
   ー飯島虚心『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)

この時に北斎が描いていた獅子の図というのが、後に「日新除魔図」と題された作品です。全部で200枚以上の図が残っていますが、最も多くの点数を誇るのが九州国立博物館です。下記のリンクから全点の画像を閲覧することができます。

ちなみに九州国立博物館が所蔵する「日新除魔図」は重要文化財に指定されています。北斎と言っても、国宝の作品は1点もなく、重要文化財は「日新除魔」の他、大阪市立美術館の「潮干狩図」、MOA美術館の「二美人図」しかありません(2021年4月現在)。

さて、「日新除魔図」を描いていた経緯が確かだとするならば、北斎は10年以上も「悪魔」のような孫に悩まされていたことになります。70代から80代前半、高齢でも絵筆を握り続け、「冨嶽三十六景」を含めた代表作を生み出した北斎ですが、プライベートを見る限り、絵を描くことだけに専念できる幸せな状況ではなかったようです。

最後に、朝井まかて氏の時代小説『眩』をご紹介しましょう。NHKのテレビドラマにもなりましたのでご存じの方も多いかと思いますが、小説では、ドラマでは全く触れられなかった北斎の孫が物語のキーパーソンとして登場します。北斎だけでなく、娘のお栄(応為)もこの孫に悩まさせることになります。家族の間でのトラブルという、北斎のみならず、どこの家庭でも起こりそうな紛糾を描いた小説、ぜひご一読ください。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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