浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。
浮世絵に関心がある方なら、浮世絵がヨーロッパへ輸出する陶磁器の包み紙として使われていたという話を、どこかで聞いた記憶があるのではないでしょうか。それがきっかけとなって、浮世絵の素晴らしさがヨーロッパに伝わるようになった、と。
もう少しちゃんとした説明ですと、フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた『北斎漫画』をたまたま発見。浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームが、ヨーロッパで始まったと伝えられています。
浮世絵は、もともと日本において、安い値段で販売される紙屑同然のものでしたが、その芸術的な価値がヨーロッパの人たちによって初めて見出されるようになったという文脈でも、この話はしばしば語られています。
皆さんはこの話を聞いた時、どのような様子をイメージしたでしょうか?現在、陶磁器を持ち運ぶ際、新聞紙やプチプチでくるんで、緩衝材とすることがあります。それと同じように、一枚の浮世絵版画をくしゃくしゃにして、陶磁器を包んだり、隙間を埋めたりしている様子ではないでしょうか。
浮世絵を陶磁器の包み紙にしたというこの話、使い勝手のよいエピソードのためか、いろいろなところで言及される一方、その根拠は省略されているケースがしばしばです。そこで今回は、この逸話について検証してみたいと思います。
そもそも、ブラックモンが『北斎漫画』を発見したというエピソードは、フランスの美術史家であるレオンス・ベネディットの著作(Léonce Bénédite,《Félix Bracquemond l'animalier》, in Art et décoration, févr.1905, p.39)を根拠としています。
小山ブリジット氏の『夢見た日本 エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』(高頭麻子・三宅京子訳、平凡社、2006年)に日本語訳が掲載されていますので、一部を引用してみましょう。
1856年、ブラックモンが、知人の家で日本の磁器製品の箱の仕切り材として入れられていた絵本を発見したのです。(※実際は1856年ではなく、数年後の出来事との指摘もあります。ブラックモンがジャポニスムの先駆者であると言えるかどうかは議論がありますが、今回はこの件については省略します。)
ベネディットの著書では、この後、ブラックモンはドゥラートルに絵本を譲ってもらうように頼みますが、断られます。しかし、それから1年か1年半ほどして、ドゥラートルの弟で版画家のラヴィエイユの手を経た後、ブラックモンはその絵本を手に入れ、周囲の人に見せてまわります。その絵本は『北斎漫画』の1冊であった、ということが語られています。
さて、ここで注目すべきは、ブラックモンが発見したのは、一枚摺りの版画ではなく、一冊の絵本だったということです。念のため、原文を引用して確認しておきます。
un petit livre=一冊の小さな本が、caler des porcelaines=磁器の仕切り材として提供されていた、とあります。
ここで『北斎漫画』の大きさを見てみましょう。太田記念美術館が所蔵する『北斎漫画』3編です。
寸法は、縦23㎝、横16㎝、厚さが約1㎝です。実際に持ってみると、確かに固すぎず、柔らかすぎず、仕切り板にするには最適です。おそらく、ちょっと厚めの段ボール板のような感覚で、磁器を運ぶ箱の中に『北斎漫画』を入れたのでしょう。
『北斎漫画』は和綴じ本ですので、綴じている紐を外すと、ご覧のように、一枚の薄い紙となります。紙は薄く、またさほど大きくないため、茶碗をしっかり包もうとすると、少し足らない感じです。
『北斎漫画』が陶磁器の緩衝材になっていたと聞くと、このように本をバラバラにして包み紙のようにして使っていたという印象を持たれるかもしれません。しかし、ブラックモンが見たのは一冊に綴じられた絵本の形をしたものだったのです。
また、大島清次氏が『ジャポニスムー印象派と浮世絵の周辺』(中央公論社、1980年。ただし引用は講談社学術文庫、1992年より)において、「日本の陶器そのものについての珍奇さについてはそこで一向にふれていないわけであるから、以前からさほど珍しくないこととして日本陶器のパリ到来を受け止めていたということにもなるだろう。」と述べているように、日本の陶磁器がやってくることは珍しくなかったようです。
それにも関わらず、ブラックモンが『北斎漫画』を熱心に欲しがったのは、『北斎漫画』のような絵本が仕切り板として用いられることが珍しいことであったと推測されます。輸送作業をする際、たまたま手ごろなものとして選ばれたと考えられるのです。
以上の話をまとめますと、ブラックモンのエピソードから、『北斎漫画』という一冊の絵本が、陶磁器運搬の緩衝材(仕切り板)として用いられたことがあったのは確かなようです。しかし、それはたまたまの出来事であった可能性が高く、また、一枚摺の浮世絵版画が包み紙として陶磁器をくるんでいたという事実までは確認できませんでした。
管見の限りでは、ブラックモンの話の他に、浮世絵が陶磁器の包み紙として日本からヨーロッパに運ばれたという根拠を確認できておりません。
モネがル・アーブルで包み紙にされていた浮世絵を見たという話もあるようですが、大島清次氏が前掲書で「一八五六年頃にル・アーブルで出会いがあったとする説もあり、これは後年モネが、マルク・エルダーの質問に答えて、『アムステルダムのある商人からアルフトの壺を買ったら、ただで大量にゆずってくれた』といっているところから発しているようだ。」と述べているように、浮世絵は包み紙として用いられてはいません。
では、浮世絵が陶磁器の包み紙であったという話はどこから来ているのでしょうか。大島清次氏の前掲書に、レオンス・ベネディットの著作を踏まえた、以下のような記述があります。
さかのぼって、戦後直後に刊行された、小林太市郎『北斎とドガ』(全国書房、1946年)には、
さらにさかのぼって、今から100年以上前、大正時代に刊行された小島烏水『浮世絵と風景画』(前川文栄閣、1914年)には、
とあります。「陶器のパッキング」「支那瓷器の包装中」「包み紙やら詰め紙にやらになつてゐた」という表現は、浮世絵が陶磁器の包み紙になっていたことを必ずしも示してはいないのですが、そのように誤解してしまう読者がいた可能性は十分に考えられます。
近藤市太郎「浮世絵と印象派ー新資料発見に関連してー」(『MUSEUM』89号、1958年)では、
と、ブラックモンが、北斎の版画が荷物の包み紙になっていることを発見したと誤解されています。浮世絵と印象派との関係が広く伝えられていく中、このような誤解も同時に広まってしまったのでしょう。
以上、ブラックモンの『北斎漫画』発見のエピソードを検証してみました。私が知らないだけで、実際に浮世絵版画が陶磁器の包み紙として海を渡っていたという事実があるかもしれません。もし具体的な典拠をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひともご教示ください。
追記
国家鮟鱇 @tonmanaangler様より、いくつかの情報提供がありましたので、ご紹介いたします。
①小島烏水「葛飾北斎の富嶽三十六景 附富嶽百景」(『江戸末期の浮世絵』梓書房、1931年)
チーズの包み紙が錦絵であったという記述です。ただし、チーズですので、包まれたのはフランスででしょう。小島烏水が何を典拠にしているかは不明です。ご存じの方、ご教示ください。
②瀬木慎一「明治以前における浮世絵の海外流出」『浮世絵芸術』24号、1970年。
瀬木氏は、ドゥラートルの家人が『北斎漫画』で陶器の包装をしたと述べております。しかしながら、典拠としているE.R. and J. Pennelの The life of James McNeill Whistlerを確認してみたところ、以下のようにありました。
「陶器の梱包として使われ、ドゥラートルによって救い出された北斎の絵本」とあり、ドゥラートルの家人が『北斎漫画』で陶器の包装をしたとは書いてありません。これは、小林太市郎(※中井宗太郎は瀬木氏の誤記と思われます)『北斎とドガ』(全国書房、1946年)の以下の記述をそのまま参照したためと考えられます。
また、The life of James McNeill Whistlerは、内容が一致することから、先に刊行されたレオンス・ベネディットの著作を参考にしたと推測されます。
③瀬木慎一「明治以前における浮世絵の海外流出」『浮世絵芸術』24号、1970年。
瀬木氏によれば、ヨーロッパの人たちが浮世絵を鯡やローソク、骨董品の包み紙として用いていた記録があるそうです。だとすると、ヨーロッパの人たちも、日本人と同様に、浮世絵を消耗品として見ていた時期があったことになります。
Henri FocillonのHokusai, le Fou Génial du Japon Moderneを2017年版の書籍で確認したところ、以下のような記述がありました。
オクターヴ・ミルボーの話によれば、クロード・モネはオランダの八百屋で、北斎、歌麿や光琳の版画で荷物を包んでいたのを発見した、八百屋は紙があまり丈夫ではないと思っていたので、喜んで版画を処分した、と。瀬木氏の記述と少々異なりますが、日本と古くから交易があったオランダでは、浮世絵が大量に輸入され、そのような雑な扱われ方をされていたのでしょうか。
また、エミール・ベルナールの序文の日本語訳(エミル・ベルナール編・硲伊之助訳『ゴッホの手紙』上巻、岩波文庫、1955年、22頁)には、以下のような記述があります。
この翻訳によれば、包み紙だったのは、浮世絵ではなく、中国の絵画でした。後日、原文を調査してみます。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)