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北斎の波の細部に迫って鑑賞してみた

葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。世界的にも有名な浮世絵ですので、一度は目にしたことがあるかとは思いますが、細かいところまでじっくりと観察してみたことはありますか?大きな波の形はぼんやりと記憶にあっても、船の中にいる人たちの顔まで、覗き込んだことはないのではないでしょうか?今回は「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の細部に迫って、観賞します。

図1

まずは画面の右下、2艘の船が海の上に浮かんでいます。この船に何人の人が乗っているか、数えたことはありますか?この船は押送船(おしおくりぶね)という船です。江戸の町まで新鮮な魚介類を届けるスピードの速い小型船でした。全長は10メートルほどあります。

図2

手前の船から、人数を数えてみましょう。

図3

男性の頭が8つ。表情はよく分かりませんが、皆、身を低くして、懸命に船の櫓を握っています。さらによく見ると、左側にも頭が2つが隠れているのにお気づきでしょうか。合計10人がこの船には乗っているようです。皆、海の中に落ちてしまわないように、必死なのでしょう。

次は、後方の船を見てみましょう。波がかなり高くせり上がっており、船尾が大きく上に持ち上げられています。ひっくり返ってしまわないか、心配です。

図4

こちらの船には何人が乗っているでしょうか?

図5

左側におそらく3人、右側に8人。合計で11人の姿が見えます。右側の8人のうち、手前の4人は体を前に倒していますが、奥の4人は体を仰け反っているように見えます。こんな小さなところですが、北斎は船の櫓をこぐ人たちの動きを描写しようとしているのです。

それでは、この2艘の船の行く先は、いったいどうなっているのでしょうか?今度は画面の左側の方に、目を移してみましょう。

図1

手前の船の先は、海面が大きく盛り上がっています。まるで白い山のようです。遠くに見える右側の富士山と、形がちょっと似ています。白い波の上には薄い水色が重ねられ、波の立体感が表現されています。

図6

この波の後ろ側にもう一艘、別の船が浮かんでいるのが見えます。

図7

こちらの船、手前にも波、そして上には崩れ落ちようとしている波と、まさしく波に呑みこまれる寸前のようです。崩れ落ちる波がまるで動物の爪のようになって襲いかかってきているようにもみえます。

波の青い部分は、濃い藍色と薄い藍色のストライプ、縞模様で描写されています。藍色は、この頃から浮世絵に導入された「ベロ藍」、すなわちプルシアンブルーという、海外から輸入された青色の顔料で表現されています。白い波しぶきが散っていますが、それぞれの大きさはまばらになっています。

さらに、船に近づいてみましょう。

図8

こちらには2人の姿が見えます。そうしますと「神奈川沖浪裏」には、最初の船に10人、次の船に11人、そしてこの船に2人と、全部で23人の人が描かれていることになります。

さて、今にも崩れ落ちそうなこの波の形はいったいどうなっているのでしょうか?その先に目を移してみましょう。

図9

こちらが波の一番高く盛り上がったところになります。おそらくこの波の形は、皆さんもご記憶にあるのではないでしょうか。

図10

波の青い部分、すなわち波の裏側は濃い藍色と薄い藍色、2色のストライプになっています。この弧を描くような青のストライプが、盛り上がっていく波の動きをより一層強調しています。また、波の白い部分には、水色がうっすらと見えており、波に立体感を与えています。

さらに波の先端を極限まで拡大してみましょう。

図11

通常、浮世絵の輪郭線は墨色、黒色が用いられます。しかしこの作品では、黒ではなく、濃い藍色になっています。黒ではなく藍(プルシアンブルーではなく本藍)を用いるという工夫によって、海や波の色が暗くならず、明るい色彩となって、華やかな画面を作り出しているのです。

さらに、波の先を見てみましょう。すこし見えづらいですが、波しぶきが散っているのがお分かりになるでしょうか?この波しぶきも同じ大きさではなく、それぞれ形が異なっています。

図12

波の向こうの空も見てみましょう。波しぶきより、さらに見えづらいかもしれません。実は、空には、波の形に似ている雲がうっすらと描かれています。お分かりになるでしょうか…。

図13

さて、波が主役であるこの作品ですが、見逃してはいけないものがもう一つあります。それは富士山です。

波が画面の右下から左下、そして左上と、全体をうねるように動いていますが、その波の向こうに富士山が見えます。この絵の舞台は、現在の神奈川県横浜市神奈川区付近です。富士山は、巨大な波を前にして今にも呑み込まれてしまいそうです。

図1

アップにしてみましょう。富士山の上にも波しぶきがかかっていることが分かります。

図14

富士山の左右に、灰色のような濃い色を摺ることによって、富士山がかなり遠く離れた場所にあると感じさせる演出となっています。

さらにアップにしてみましょう。富士山の山頂は、三つの峰に分かれています。北斎に限らず、富士山を描く時の決まったパターンといえるでしょう。雪もかなり積もっています。雪のない部分は藍色をしていますが、これは波と同じ藍色が用いられています。

図15

かなり小さく描かれているのも関わらず、これだけアップにしても、どっしりとした存在感を感じませんか?この安定感のある富士山が、激しく動く波と対比されることで、画面に静と動の絶妙なバランスをもたらしているのです。

最後に、画面の左上にある題名と、北斎のサインを見ておきましょう。右側、「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」とあります。二重の枠線に囲まれていますが、左側が一部、欠けています。摺りの早いものであれば、もちろんここは欠けていません。細い線ですので、何度も摺っている間に欠けてしまったのでしょう。

図16

また、枠の右下の方をよく見ると、空の色がごくわずかですがずれていることが分かります。摺師がちょっとだけ失敗してしまったようですね。

その左側にある文字は、北斎のサインです。「北斎改為一筆」と書いてあります。北斎は60歳を過ぎた頃から、「為一(いいつ)」と画号を改めました。しかし、まだ北斎という名前が広く浸透していたためか、為一と名乗ってから10年以上経つにも関わらず、「北斎、改め、為一」とサインしているのです。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。いかがでしたでしょうか?細かいところまで拡大してみると、作品の印象も大きく変わってくるのではないでしょうか。ぜひもう一度、じっくりとご覧ください。

図1

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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