『北斎漫画』が北斎の死後30年ほども経って完結した理由とは?
葛飾北斎の代表作である『北斎漫画』。人物、動物、植物、建物、自然など、ありとあらゆる題材が描かれた絵本です。現在のイラスト集やカット集のようなものと言えるでしょう。
この『北斎漫画』は全部で15編からなるのですが、実は最後の15編は北斎が亡くなった後に刊行されたというのはご存知でしょうか?しかもそれは江戸時代が終わり、明治11年(1878)になってのこと。北斎は嘉永2年(1849)に亡くなっていますので、北斎の死後29年という長い時が経ってから刊行されたことになります。
今年(2021年)は漫画家の手塚治虫が亡くなってから32年ですが、今になって手塚治虫の漫画の完結編が出されるのと似た感じと言えば、ちょっと不思議な出来事であることが伝わるでしょう。
今回は『北斎漫画』がなぜ北斎の死後30年ほど経ってから完結したのかについてご紹介いたします。
そもそも『北斎漫画』の初編は文化11年(1814)、北斎が数え55歳の時に刊行されました。5年の間で10編まで立て続けに刊行されますが、その後はペースがガクンと落ち、北斎が亡くなった直後でようやく14編までが揃います。
それでは、なぜ北斎が亡くなってから30年近くも経ち、時代も江戸から明治になったにも関わらず、今更と言っていいタイミングで『北斎漫画』の続編が刊行されることになったのでしょうか?
その経緯について、『北斎漫画』15編の版元である永楽屋の主人・片野東四郎が序文で書き記しています。ポイントとなるところを引用していきましょう。
先代の永楽屋が『北斎漫画』は全部で15編とすることを北斎と約束していましたが、先代も北斎も15編を刊行する前に亡くなってしまいました。片野東四郎は彼らの志を果たせてないことを残念に思っていたのです。
明治に入ってから、外国からやって来た人たちが、『北斎漫画』を褒めたたえ、購入して持って帰る人が少なくありませんでした。(永楽屋では明治になっても『北斎漫画』を販売していました。)
ある日、東四郎が近頃新たに印刷された洋書を見たところ、その図の中に頻繁に『北斎漫画』に描かれた人物が登場していることを発見します。北斎の絵が遠く海外にまで伝わっていることを知るのです。
北斎の絵本はすでにヨーロッパに渡っており、例えば以下のような日本の風俗を紹介する紀行書の中で、『北斎漫画』や北斎の絵本を参考にした挿絵が掲載されています。ただし、北斎という絵師の存在は認識されていなかったようで、本の中に北斎の名前は記述されていません。
シェラード・オズボーン『日本断想』(National Library of India)
ラザフォード・オールコック『大君の都』(Digital Library of India)
エメ・アンベール『日本図説』(University of Toronto)
この状況を知り、東四郎は以下のように述べます。
「九仞の功を一簣に虧くことを惜しむ」とは、高い山を築くのに、最後のもっこ1杯の土が足りないために完成しないことを惜しむという意味です。東四郎は、『北斎漫画』が15編で完結する予定であったにも関わらず、14編で終わってしまっている現状を嘆いているのです。
以上、『北斎漫画』15編の序文を途中まで読んでみました。ここまでの経緯から、北斎の絵が海外に伝わっていたからこそ、『北斎漫画』を何としても完結させようと版元が決断したことが分かります。
海外の人が浮世絵を評価してから日本人はその価値を認めるようになったとよく言われますが、『北斎漫画』の完結にあたっても、実は海外での評価が大きな要因となっていたのです。
しかしながら、すでに北斎が亡くなってから29年も経っています。永楽屋・片野東四郎はどのようにして『北斎漫画』15編を完成させたのでしょうか?それは次の記事にてご紹介します。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)
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