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本能寺の変を月岡芳年も描いてみた。

本能寺の変は、天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺に滞在していた織田信長に対し、家臣である明智光秀が謀反を起こした事件のこと。以前、別記事にて、歌川国芳による本能寺の変の浮世絵をご紹介しましたが、国芳の門人である月岡芳年も、本能寺の変を描いています。

月岡芳年が描いた本能寺の変が、こちらの「京都四条夜討ノ図」。元治元年(1864)の制作です。右端にいる織田信長が、敵兵に槍を突き付けられている場面を描いています。

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実は江戸時代、浮世絵版画の中で、天正年間(1573~93)頃以降の武将を描くことが、幕府によって禁じられていました。そのため、織田信長をそのまま織田信長として描くことができません。脇に記されている人物名を読んでみると・・・

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「大多上総介平春永公」とあります。大多春永。織田信長をもじって、大多春永としているのです。

障子越しに、織田信長に向かって槍を繰り出しているのは「易田宅兵衛国朝」。安田作兵衛国継という、明智光秀の配下である斎藤利三に仕えた武将です。

11662月岡芳年2

襲われている織田信長を助けようと、血まみれの足で駆けつけるのは「保里蘭丸永保」。森蘭丸長康、すなわち、信長の近習である森蘭丸です。

11663月岡芳年2

この後、安田国継と森蘭丸の戦いとなります。国継は蘭丸に槍で腿を貫かれますが反撃し、逆に蘭丸を討ち取ります。

さて、実はこの月岡芳年の本能寺の変、師匠である歌川国芳のある作品から、強い影響を受けています。下記のリンク先から、ボストン美術館が所蔵する「頼朝旗起 八牧館夜討図」をご覧ください。

障子の後ろにいる人物、それに槍を突き立てる人物、さらにそれを食い止めようとする人物という3人の姿。これを反対側の角度から眺めると、芳年の作品の構図になります。床に倒れている人物や、散乱している御簾や衝立の様子などもよく似ています。

図1

おそらく芳年は師匠である国芳の作品を参考にしつつ、アレンジをして、本能寺の変を描こうとしたのでしょう。この時の芳年は数え26歳。まだ師匠からの影響が色濃く残っている時期です。

さて、ちょっと気になるのが、国芳の描いた「頼朝旗起 八牧館夜討図」が、本能寺の変ではないところです。平安時代末期、源頼朝の命を受け、加藤景廉が山木兼隆を討ち取った場面となっています。

ただ、これも、天正年間(1573~93)頃以降の武将を描くことが禁じられていたことによる国芳の工夫。実は国芳のこの絵、下のリンク先にある『絵本太閤記』三編九(早稲田大学図書館蔵)、岡田玉山による本能寺の変の挿絵を、かなり参考にしています。

ご覧いただければお分かりのように、戦いの激しさは国芳の方が迫力がありますが、主要な人物たちの動きはほとんど一緒です。冒頭で紹介した「本能寺の変を歌川国芳が描いてみた。」で紹介した例と同じように、「頼朝旗起 八牧館夜討図」も、平安・鎌倉時代の過去の出来事に仮託しながら、本能寺の変を描いたと考えられます。

すなわち、月岡芳年の「京都四条夜討ノ図」は歌川国芳の「頼朝旗起 八牧館夜討図」を参考とし、その国芳の「頼朝旗起 八牧館夜討図」も岡田玉山の『絵本太閤記』を手本としているのです。

現代の感覚ですとパクリと判断してしまう人もいるかもしれません。しかし、浮世絵師たちが武者絵を描くにあたって、過去の図像を参照することは、ごく一般的な制作手法でした。浮世絵師が、過去のどんな作品を参考としているのか。さらに、そこにどのようなオリジナルの工夫を加えているかを探ることが、浮世絵を研究する面白さの一つでもあるのです。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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