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【オンライン展覧会】広重ブルー

太田記念美術館にて、2024年10月5日~12月8日開催の「広重ブルー」展のオンライン展覧会です。

前後期でご紹介する全134点を掲載しています。note上では、画像をクリックすると、より大きなサイズでご覧いただけますので、美術館で実物をご覧いただくような感覚でお楽しみいただけます。
オンライン展覧会の入館料は1,800円です。無料公開の下にある「記事を購入する」をクリックしてご購入ください。一度記事をご購入されると無期限でご覧いただけます。いつでも、どこでも、お好きな時に「広重ブルー」展をご鑑賞いただけます。

※後期展示作品の解説を11月9日公開しました。

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/hiroshigeblue/


はじめに 

 風景画の巨匠、歌川広重(1797~1858)。その作品の多くは空や海の深く美しい青が印象的です。これは1830年頃から浮世絵に用いられたベロ藍(プルシアンブルー)と呼ばれる青色の絵具によるもの。その美しさに触発され様々な絵師がベロ藍を使って風景画を描きますが、当時30代半ばの広重もまた、そのひとりでした。
 広重は、ベロ藍との出会いから風景画に開眼すると、人気絵師への階段をのぼっていきます。そして晩年にいたるまで、表情豊かな青を用いて詩情あふれる名作を生み出し続け、浮世絵界に不動の地位を築いていったのです。
 本展では、広重の初期から晩年にいたる優品を中心に、葛飾北斎や歌川国芳などのベロ藍を用いた作品もあわせてご覧いただき、国内外で愛され続ける広重の青の魅力に迫ります。

1 広重ブルーの世界 ①天保期(1830~44)の風景画

 火消し同心の家に生まれた広重が、歌川豊広に入門したのは15歳頃。下積み時代を経て、最初のヒット作「一幽斎がき東都名所」を世に送り出した時、広重はすでに30代半ばでした。しかしここから広重は、新しい青色絵具であるベロ藍の特性を生かし、うつろう空模様や水面の輝きを他のどの絵師よりも繊細に表現し、売れっ子絵師の仲間入りを果たします。
 本章では、初期作品から、保永堂版「東海道五拾三次之内」シリーズや「京都名所之内」シリーズなど、立て続けに名作が生み出された天保期の風景画をご覧いただきます。

コラム① 最初期のベロ藍作品

№1 歌川広重「東都名所拾景 深川新地」小判錦絵 文政末~天保初期(1828-30)頃 ※前期

広重の江戸名所絵では最初期に制作されたシリーズの1図。成分分析から青の絵具はあいと判定されています。藍は退色しにくいという点で優れていましたが、不溶性のためグラデーションを生むぼかし摺には不向きでした。本図は丁寧な筆使いが見られるものの、ぼかし摺を駆使した後の作品と比べて平板な印象となっています。画中文字は「深川やここも新地のつき出しを 海手にめだつ茶やの見通し」。

№ 2 歌川広重「東都名所拾景 道灌山」小判錦絵 文政末~天保初期(1828-30)頃 ※後期

同じシリーズで、本図は眺望の良さで知られた道灌山どうかんやま(荒川区西日暮里、北区田端)が舞台。奥行きや高低差を表そうとした構図の工夫は見られますが、ぼかし摺を駆使した後の作品と比べて平板な印象となっています。狂歌は「道灌の城跡たえていまはただ 鳥のみふせぐ網の縄ばり」。

№ 3 歌川広重「東都名所 佃嶋」中判錦絵 天保1~2年(1830-31)頃 ※後期

天保初期頃、広重が複数手掛けた小画面の風景画シリーズのひとつで、題材は江戸名所です。画面上の赤の雲(すやりがすみ)はこれ以前の風景画に見られたもので、広重は青や黄も用いてより表情豊かに空模様を再現しようとしています。一方で近景と中景のつながりにはやや不自然さが残されています。

№ 4 歌川広重「東都名所 両国橋」中判錦絵 天保1~2年(1830-31)頃 ※前期

同じシリーズの1図。両国橋を捉えますが、大きく取った空に見られるカラフルな配色には、広重の試行錯誤の様子がうかがわれます。

№ 5 歌川広重「江戸十橋之内 永代橋」大判錦絵 天保(1830-44)初期 ※後期

永代橋えいたいばしの手前に描かれるのは芸者たちを乗せた屋根船やねぶね。永代橋の北側から南側を眺める情景で、画面奥は深川新地のあたりと思われます。近景・中景・遠景で画面を組み立て、奥行きが表されています。橋の欄干らんかんから下を見る男性など周囲の人物描写も細やかです。同シリーズは他に「大橋」「両国橋」が報告されています。

№ 6 歌川広重「東都八景 永代橋之時雨」中判錦絵 天保2年(1831)頃 ※前期

六角形の枠の中に江戸名所を描いたシリーズの1図。墨としゅと青を主体にした彩色は、同時期に制作された「一幽斎いちゆうさいがき東都名所」とも近似します。副題にある「時雨しぐれ」は、狂歌「永代のながき時雨に橋の名の 袂もぬれてかへるふか川」に詠み込まれますが、絵ではほとんど表されません。作者の八陣亭堅城はちじんていかたきは早くから広重の作品に讃を寄せ、深い親交が知られる人物です。

№ 7 歌川広重「東都八景 両国之夕照」間四つ切判錦絵 天保2年(1831)頃 ※後期

扇面形の枠の中に江戸名所を描いた、小画面風景画シリーズの1図。濃淡の幅の広い青はベロ藍によるものと考えられます。同時期の「一幽斎いちゆうさいがき東都名所 両国之宵月」と構図、また雲に朱を用いる色使いが似ています。本図では、青の濃淡で橋の下の影や、明るい水面の様子を表現しています。狂歌は「橋の上人かきわけてのぞきけり からくり華火あぐる両国」。作者は№6と同じ八陣亭です。

№ 8 歌川広重「東都八景 洲崎雪之朝」間四つ切判錦絵 天保2年(1831)頃 ※前期

同じシリーズの1図。青のグラデーションによって、日の出とともに明るさが変化する水面の様子をうまく表現しています。画中文字は「うつくしき弁才天もいますとて かわる洲崎の雪の御社 幽斎」。「幽斎」とは広重のことで、自身も狂歌をたしなんだことをうかがわせます。

№ 9 歌川広重「東都名所 高輪之明月」大判錦絵 天保2年(1831)頃 ※前期

飛行するかりの群れをほぼ真横からとらえ、その背後に海や沿岸の茶店を見下ろすように描く構図によって、空中から眺めるような臨場感が生み出されています。「一幽斎いちゆうさい」号で描いた最初の大判風景画であり、「一幽斎がき東都名所」とも通称される10図揃の1図。成分分析から青はベロ藍と判明しており、濃紺と明るい青をもって、月光やこれを反射する高輪の海を巧みに表しています。

№ 10 歌川広重「東都名所 両国之宵月」大判錦絵 天保2年(1831)頃 ※後期

「一幽斎がき東都名所」の1図です。両国橋の橋桁はしげた越しに望むのは満月。ベロ藍をぼかし下げた空と、墨と朱による雲が、夕刻から宵の口へと変化する微妙な空模様を表し、橋桁のささくれだった描写は夕暮れ時の寂寥感せきりょうかんを助長します。画面奥に透視図法を用いて描かれるのは隅田川東岸の景。右端には消失点が明確に設けられ、奥行きある画面が生み出されています。

№ 11 歌川広重「東都名所 佃嶋初郭公」大判錦絵 天保2年(1831)頃 ※前期

「一幽斎がき東都名所」の1図です。空を飛んでいくのはホトトギス。水平線近くにたなびくしゅの雲が、太陽が沈んでからまだ間もない頃とうかがわせます。色数は少ないながら、様々な形の雲を用いて奥行きや、空の微妙な変化を再現する手腕は見事です。本シリーズは、ベロ藍のグラデーションが移ろう空模様や水面の輝きを表す上で有用であることを、広重が的確に理解していたことも教えてくれます。

№ 12 歌川広重「東都名所 洲崎雪之初日」大判錦絵 天保2年(1831)頃  ※後期

「一幽斎がき東都名所」の1図。洲崎すさきは現在の江東区木場付近。現在ではその面影は失われてしまいましたが、当時は江戸湾に面し、海を一望することができました。初日の出の人気スポットでもあったこの地を、広重は青を多用し、静けさ漂う情景として描き出しています。

№ 13 歌川広重「東都名所 真崎暮春之景」大判錦絵 天保2年(1831)頃 ※前期

同じく「一幽斎がき東都名所」の1図。隅田川上流ののどかな春の暮の情景です。真崎まっさきは橋場の渡しより北の西岸一体で、画面左が真崎稲荷神社まっさきいなりじんじゃ。画面右には水神の森が描かれます。手前は青を淡く摺り、奥は色を付けない明るい水面が、春の穏やかな陽光を表しています。

№ 14 歌川広重「東都名所 芝浦汐干之図」大判錦絵 天保2年(1831)頃 ※後期

「一幽斎がき東都名所」の1図。潮が引き、海浜が現れてきた芝浦の様子を描きます。手前の帆掛ほかぶねを大きくとらえ、中遠景の船や漁村を小さく描く透視図法に基づいた遠近法が用いられます。また遠景は淡い墨のシルエットで表す空気遠近法の応用も見られます。広重が、複数の遠近法を駆使できる高い構成力を有していたことをも教えてくれる作品。

コラム② 後摺と比べてみる

№ 15 歌川広重「月二拾八景之内 弓張月」大短冊判錦絵 天保3~6年(1832-35)頃 ※前期

月を題材としたシリーズで「二拾八景」を冠しますが、2点しか確認されていません。舞台は深山幽谷で、橋の下に月を望みます。画中文字は中国、中唐の詩人韓翃かんこうの「宿石邑山中(石邑せきゆう山中に宿す)」から取ったもので読み下しは「暁月ぎょうげつしばらく飛ぶ千樹の裏 秋河しゅうがは隔てて数峰の西に在り」。明け方の月と峰が織りなす奇観を詠んだもので、画中の気分と一致しています。

№ 16 歌川広重「月二拾八景之内 葉ごしの月」大短冊判錦絵 天保3~6年(1832-35)頃 ※後期

同じシリーズの1図。滝と、紅葉の枝越しに満月を眺めるという、余分なモチーフを排した大胆な構図です。画中さんは、秋のわびしさに友人より年上の自身を重ねた、白居易はくきょいの漢詩「秋雨中贈元九(秋雨しゅうう中、元九げんきゅうに贈る)」から取ったもので、読み下しは「堪へず紅葉青苔せいたいの地 またこれ涼風暮雨ぼうの天」。絵とともに読むことで秋の寂寥感せきりょうかんをより感じさせます。

№ 17 歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」大判錦絵 天保4~6年(1833-35)頃 ※前期

空前のヒットとなり、広重を人気絵師に押し上げた「東海道五拾三次之内とうかいどうごじゅうさんつぎのうち」シリーズは、版元、竹内孫八たけのうちまごはちの堂号にちなみ「保永堂版ほえいどうばん」とも通称されます。シリーズ冒頭を飾る本図の舞台は、五街道の基点であり北詰には魚河岸を控えた、江戸の中心地であった日本橋。画面上には青の一文字ぼかしを、その下には淡く朱やだいだいを用いて、薄闇が残る早朝の雰囲気を表しています。

№ 18 歌川広重「東海道五拾三次之内 品川 日之出」大判錦絵 天保4~6年(1833-35)頃 ※後期

「保永堂版」の1図です。品川宿は江戸を出立した際の東海道最初の宿場。副題は「日之出」で、夜の名残と陽光の兆しが混ざり合うような空が表されます。最後尾が見える大名行列は暗いうちに出発したのでしょう。

№ 19 歌川広重「東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図」大判錦絵 天保4~6年(1833-35)頃 ※後期

同じシリーズの1図で、舞台は沼津宿(静岡県)近くの街道。満月が照らすなか、白装束しろしょうぞく天狗てんぐの面を背負って歩くのは金刀比羅宮こんぴらぐうへの参詣を目指す行者ぎょうじゃです。その先の女性と少女の2人連れについては、伊勢神宮への抜け参りや、諸国を遍歴する比丘尼びくにといった説があります。青で埋められた空や水面は、夜の静けさを、そして一日歩き続けた旅人たちの疲れまで伝えるかのようです。

№ 20 歌川広重「東海道五拾三次之内 見附 天竜川図」大判錦絵 天保4~6年(1833-35)頃 ※前期

「保永堂版」の1図で、舞台は見附宿みつけじゅく(静岡県磐田市)を過ぎた天竜川の渡し場。天竜川は、画面手前の大天竜と奥の小天竜の2つの流れからなり、中央の中洲で乗り換えが行われました。大天竜には濃紺を、奥の小天竜には淡い青を用いることで、奥行きが巧みに表されています。後ろ姿の船頭はすでにひと仕事を終えたのか、どこかくつろいだ空気も感じさせます。

№ 21 歌川広重「木曽海道六拾九次之内 三拾弐 洗馬」大判錦絵 天保7~8年(1836-37)頃 ※前期

木曽海道六拾九次之内きそかいどうろくじゅうきゅうつぎのうち」シリーズは、保永堂版東海道の成功を受けて企画されました。最初は溪斎英泉けいさいえいせんによる作画でしたが、途中から広重が絵を手掛けます。本図は洗馬宿せばじゅく(長野県塩尻市)の西を流れる奈良井川が舞台。夕月の周囲には淡い青と赤、墨が複雑に配され、夜のとばりが下りつつも陽の名残もある、微妙な空模様が表されています。芝舟しばぶねいかだを繰る男性たちの姿も丁寧にとらえ、秋の夕暮れを情趣豊かに表した名品として知られる1点です。

№ 22 歌川広重「木曽海道六拾九次之内 二拾六 望月」大判錦絵 天保7~8年(1836-37)頃 ※後期

同じシリーズの1図。画面右が筋状の夜陰やいんをまとう駒形山、左が旅人や馬方が歩く瓜生坂うりうざか。この坂を超えて、鹿曲川かくまがわを渡ると望月宿もちづきじゅく(長野県佐久市)に入ります。坂では馬が首をうなだれるようにして進んでおり、背中の荷の重みを感じさせます。

№ 23 歌川広重「京都名所之内 あらし山満花」大判錦絵 天保5~6年(1834-35)頃 ※後期

京都の名所を描く10図揃のうちの1図。本図では、桜咲く嵐山ののどかな風景を『都林泉名勝図会みやこりんせんめいしょうずえ』の挿図を参照しつつ、画面を横長に置き換え、大堰川おおいがわを斜めに配置することで躍動感ある画面へと再構築しています。また青のグラデーションと摺り残した部分との対比による、きらめく水面や散る花びらの美しさも見どころです。

参照

№ 24 歌川広重「京都名所之内 淀川」大判錦絵 天保5~6年(1834-35)頃 ※前期

同じシリーズの1図。京と大坂を結ぶ重要な水運であった淀川を舞台に、その名物として知られた夜船よふねと飲食物を売る「くらわんか船」を描きます。構図は『都名所図会』を参照しますが、広重はベロ藍で月の輝きを際立たせます。ホトトギスと見上げる船頭のポーズも広重の工夫で、これにより、鳥の鳴き声で顔を上げた、その一瞬が切り取られています。

№ 25 歌川広重「四季江都名所 夏両国之月」中短冊判錦絵 天保3~6年(1832-35)頃 ※前期

この判型の江戸名所絵として最初期のもので4図からなり、いずれも佳作です。両国橋の橋脚を手前に描き、その奥にスイカなどの水菓子みずがしを売る親子の船、さらに遠方に薬研堀やげんぼりに架かる元柳橋もとやなぎばしと満月を眺めます。画中文字は「橋のうへ人かきわけてのぞきけり からくり花火あぐる両ごく」。花火が打ち上げられるようで、親子にとっては稼ぎ時なのでしょう。

№ 26 歌川広重「四季江都名所 冬隅田川之雪」中短冊判錦絵 天保3~6年(1832-35)頃 ※後期

同じシリーズの1図。隅田川に雪が降り続く様子をとらえる本図では、空にも隙間なく降る雪が見えます。濃紺と墨を主体に、和紙の白を対比させることで静かで冷たい冬の空気が表されています。讃は「すみだ川水のうへにもふる雪の きえのこれるは都鳥かも」。江戸中期の加藤枝直えなおによるもので『江戸名所花暦』に掲載されています。

№ 27 歌川広重「 江戸近郊八景之内 玉川秋月」大判錦絵 天保7~8年(1836-37)頃 ※後期

抑えた色調と温雅な雰囲気が特徴の、狂歌師、大盃堂呑枡たいはいどうのみますとその連の注文による8図揃のシリーズ。本図では近景に柳、中景に多摩川、遠景に山々のシルエットを配し、遠くのものほど淡く描く空気遠近法も相まって、穏やかで広やかな空間が広がります。月には銀泥ぎんでいを施し、漁師や月見の人々を照らす、その優しい輝きを表現しようとしています。

№ 28 歌川広重「江戸近郊八景之内 芝浦晴嵐」大判錦絵 天保7~8年(1836-37)頃 ※前期

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