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北斎はなぜ93回も引っ越しをしたのかという話

明治26年(1893)に飯島虚心が執筆した『葛飾北斎伝』は、北斎の伝記を体系的にまとめた初めての研究書です。冒頭には重野安繹による序文があるのですが、その文章はこのように始まります。

画工北斎畸人也。年九十而移居九十三所。

北斎は「畸人」、すなわち、風変わりな人物で、90歳の生涯で93回も引っ越した、と。北斎が畸人であることを示す最初の特徴として、引っ越しの多さが挙げられているのです。

北斎が頻繁に引っ越しをしていたのは確かなようです。北斎とタッグを組んで読本を制作していた戯作者の曲亭馬琴は、北斎からもらった手紙に、以下のような朱書きの覚書を貼り付けています(画像は『曲亭来簡集』月之巻、国立国会図書館蔵。参考:柴田光彦・神田正行編『馬琴書翰集成』第6巻、八木書店、2003年、273頁)。

居を転すると名ヲかゆるとは、このをとこほどしば/\なるハなし。

この男とは、もちろん北斎のこと。北斎ほど、引っ越しと改名をする者は他にはいないと、馬琴が証言しているのです。

図2

また、天保7年(1836)に刊行された、『広益諸家人名録』という、さまざまなジャンルの著名人の住所を記した人名録というものがあるのですが、北斎は「居所不定」と記されています。(画像は国立国会図書館蔵)

図1

この『広益諸家人名録』に掲載されている人の数は、473名(物故者除く)。そのうち、居所不定となっているのは、北斎と釈寿阿弥のたった2人だけです。

天保13年(1842)に刊行された『広益諸家人名録』二集も同様で、住所が空欄になっていたり、黒く塗りつぶされたりしている人は何人もいるのですが、しっかりと「居所不定」と書かれているのは、北斎ただ一人です。北斎の居場所が分からないのは、頻繁に引っ越ししていたからなのでしょう。

『葛飾北斎伝』に「甚だしきは一日三所に転ぜしことありとぞ。」とあるように、一日に3回も引っ越したこともあるようです。これではどこに住んでいるか、すぐに分からなくなりますね。

一方、北斎の93回にも渡る引っ越し先がすべて明らかになっているという訳でもありません。さまざまな記録からいくつかの住所が確認されていますが、ざっくりとした場所であったり、年代が不明であったり、根拠が不確かだったりもして、20数か所が挙げられる程度です。

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(※日野原健司『ようこそ北斎の世界へ』東京美術、2020年)

さらに『葛飾北斎伝』には、75歳までに56回ほど引っ越したとあります(「翁が七十五歳の時、転居せしこと、凡五十六回なれども」)。そうすると、90歳で亡くなるまでの約15年間に37回も引っ越さなくてはなりません。70代後半から80代にかけてという高齢にもかかわらず、毎年2~3回も引っ越したという計算になるのです。本当に93回も引っ越すことができたのか、ちょっと疑問が残るところです。

さて、93回が本当かどうかはともかく、北斎はなぜそれほどまでにたくさんの引っ越しをしたのでしょうか。その理由の一つに、北斎は部屋の掃除をするのが面倒だったからということが『葛飾北斎伝』に記されています。

又懶惰にして居室を掃除せず、常に弊衣を着し、竹の皮、炭俵など、左右に取りちらし、汚穢極まれば、即居を転じて他に移るといふ

部屋の汚れが限界になったら引っ越すというのです。掃除が苦手だという人は多いかもしれませんが、部屋が汚れるたびに、引っ越しをしていたら大変です。そんな疑問は、北斎と直接交流があった人も思っていたようで、四方梅彦という戯作者は、北斎にこのように問いかけています。

転居すること、先生の如くなれば、たとひ富有なるも、終に費用に追はれ、貧窮に陥るべし。先生時に居宅の汚穢を厭ひ、転居せんとおもひ給はゞ、人をして、全家を掃除せしめて、可なるべし。(『葛飾北斎伝』)

先生(北斎)のように引っ越しばかりしていたら、お金がかかってしまいます。部屋が汚れて引っ越すくらいなら、人を雇って代わりに掃除をしてもらえばいいではないかと。確かにその方がはるかに効率がよさそうです。

しかし、北斎が頻繁に引っ越しをしていたのは、単に部屋が汚れたからだけではありません。北斎は四方梅彦の疑問に対して、以下のように答えています。

幕府の表坊主に、寺町百庵といふ人あり。此の人、生涯に、転居百回すべしとて、自(みずから)百庵と号し、既に今は九十有余回の転居をなせり。余もまた百庵にならひ、百回の転居をなし、しかして死所を卜すべし。(『葛飾北斎伝』)

転居を100回しようとした寺町百庵という人物がおり、その百庵にならって自分も100回引っ越しを目指すというのです。

寺町百庵は、俳諧や和歌に精通した人物で、多くの著書を残しています。亡くなったのは天明元年(1781)。宝暦10年(1760)に生まれた北斎が20歳過ぎの頃ですので、直接の接点がなかったともいえませんが、なぜ北斎が百庵にならおうとしたのか、その経緯ははっきりと分かりません。

ただ、おそらく負けず嫌いであったであろう北斎。引っ越しの数でも誰にも負けたくないと思い、寺町百庵を超えるべく、100回を目指して、意地でも引っ越しし続けていたのかもしれません。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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