【オンライン展覧会】「江戸の凸凹」展
太田記念美術館にて、2019年6月1日~6月26日に開催された「江戸の凸凹」展のアーカイブです。浮世絵に描かれた江戸の風景とともに地形図を参照しながら、江戸、そして東京の高低差を感じてもらうというマニアックな企画。本アーカイブでは展示作品・全80点の画像ならびに、展示室内の作品解説を掲載しています。作品画像はある程度細部までは拡大できますので、美術館で実物をご覧いただくようにお楽しみいただけます。オンライン展覧会の入館料は、実際の美術館の入館料と同額である800円です。ご覧いただける期間は無期限となっておりますので、いつでも、どこでも、好きな時に「江戸の凸凹」展をご鑑賞いただけます。
〈展示を見る前に〉地形図とともに浮世絵を楽しもう
本展覧会の第Ⅱ章「江戸の凸凹-高低差を歩く」のセクションからは、東京の高低差を色でわかりやすく示した地形図を見ながら、江戸の各エリアを描いた浮世絵を鑑賞する仕組みになっています。ぜひ下記の「東京の地形と江戸の名所map」をプリントアウトの上、お手元におきながらご鑑賞ください。なお、地形図の作成には、東京スリバチ学会会長の皆川典久氏にご協力いただきました。
PDF版は下記からダウンロードしてください。
また本展開催にあわせ、雑誌「東京人」さんと連携し、2019年7月号にて「浮世絵で歩く東京の凸凹」という特集を組んでいただきましたので、ご興味のある方は本展と合わせて御覧ください。
はじめに
昨今、高低差や坂道、スリバチ地形など、ちょっとユニークな視点での街歩きがテレビや書籍で取り上げられ、静かな人気となっています。東京は西側に武蔵野台地が、東側に低地が広がり、神田川、目黒川などの川や、大昔の河川の跡に沿っていくつもの谷が広がる地形が特徴であり、高低差を感じながら歩くと楽しい都市といえるでしょう。
江戸時代に描かれた浮世絵の風景画を眺めてみると、広重をはじめとする浮世絵師たちも、しばしば地形の高低差を意識した構図で、江戸の町を描いています。江戸と現在の東京を比べた時、町並みこそ大きく異なりますが、高低差や坂道などの地形の特徴は当時からほぼ変わらずに残っています。
本展は、愛宕山や駿河台などの山や台地、神田川など河川の周囲に広がる谷、築地や深川などの水辺に広がる低地、江戸見坂や九段坂などの坂といった、浮世絵に描かれた江戸の凸凹-地形の高低差に焦点を当てる展覧会です。現代の地形とのつながりも感じながら、浮世絵を眺めることで、江戸の風景が今までより身近に見えてくるのではないでしょうか。
Ⅰ 江戸の坂-凸と凹を結ぶ
町歩きをしていて高低差をもっとも感じる地形は坂でしょう。高所と低所があれば、坂はその間を結ぶために必ず存在します。浮世絵にも、広重を中心に江戸市中の有名な坂が題材となって描かれています。江戸時代の坂は、現在まで地形はもちろんのこと、名前もそのまま残っている場所が多いので、浮世絵に描かれた坂を楽しんでから、現在の様子を訪ねてみるのも楽しいかもしれません。
(1)歌川広重 東都名所坂つくしの内 牛込神楽坂之図 大判錦絵 天保(1830~44)末期頃
江戸のさまざまな坂を題材にした10図からなる揃物のうちの一図。広重は江戸名所を描いた数多くの揃物を手がけているが、その中でも珍しい坂を題材とした作品。図は牛込神楽坂の様子を描く。神楽坂から現在の飯田橋駅方向を眺めた視点で、遠くに外濠と、江戸城の見附のひとつである牛込見附が見える。坂の右側には茶店などが並び、左手には武家の屋敷が建つ。手前には、さまざまな身分の人々が坂を往来する様子が描かれる。
(2)歌川広重 東都名所坂つくし之内 昌平坂御茶ノ水 大判錦絵 天保(1830~44)末期頃
画面右手に描かれるのは湯島聖堂の石垣。正面には仙台藩によって江戸初期に掘削された神田川の流れと、急峻な崖が見える。神田川に沿った坂は相生坂で、相生坂から石垣に沿って手前に描かれるのが昌平坂。相生坂も昌平坂と呼ばれることがある。寛政以前には画面手前に描かれた昌平坂の西側に、神田明神から伸びた坂があり、これも昌平坂と呼ばれていたとされ、都合3つの昌平坂と呼ばれる坂が湯島聖堂付近にあったことになる。
(3)歌川広重 東都名所坂つくしの内 飯田町九段坂之図 大判錦絵 天保(1830~44)末期頃
九段坂の斜面を、神保町方面から靖国神社方面に向かって描く。画面左には牛ヶ淵の濠が見え、九段坂を登りきった左側には田安門がある。九段坂の地形は現在も基本的に変わりはなく、牛ヶ淵の濠の形もほぼそのままである。牛ヶ淵は千鳥ヶ淵とともに、天正18年(1590)に徳川家康が江戸入城後に、飲料水確保のため小河川をせき止めたダムの名残とされる。坂を往来する人々の中には、江戸城の付近であるからか、武士の姿が多く描かれている。
(4)江戸名所道外尽 四十三 いひ田まち 大判錦絵 安政6年(1859)7月
坂道を臼が転がり、避けきれなかった女性が臼にぶつかって倒れている。後から臼を追って男がってきたものの、間に合わなかったようだ。周りにはびっくりして女性を避ける人や、その様子を指さして笑う人も見える。本図に描かれた坂は九段坂の北側に並行して走っていた元飯田町の中坂。舗装されていない、でこぼことした当時の坂道の様子がうかがえて興味深い。
(5)歌川広重 東都名所坂つくしの内 伊皿子潮見坂之図 大判錦絵 天保(1830~44)末期頃
階段状に整備された坂道が手前に描かれ、人々の往来が見える。坂に沿っていくつかの商店が立ち並ぶ。潮見坂(汐見坂)と呼ばれる坂は江戸にいくつかあった。三田聖坂から功運寺の脇を通る坂も潮見坂として知られているが、東海道の高輪大木戸付近から二本榎通りに抜ける、伊皿子坂の途中からも潮見坂と呼ばれたという。図は題名に伊皿子とあるので、こちらの潮見坂を描いたものと思われる。江戸湾を一望にする見晴らしが素晴らしい。
(6)葛飾北斎 諸国瀧廻り 東都葵ヶ岡の滝 大判錦絵 天保4年(1833)頃
葛飾北斎による諸国の滝を題材とした揃物の一図。葵ヶ岡の滝は現在の港区虎ノ門2丁目にかつて存在していた、溜池から流れ出す水流のことを指す。この付近には葵が植えられていたことから、葵ヶ岡と称されたという。滝の脇には葵坂と呼ばれる坂があり、図では左側に描かれている。
(7)歌川広重 名所江戸百景 虎の門あふひ坂 大判錦絵 安政4年(1857)11月
北斎の図と同地点を描いた広重の作品。こちらは滝ではなく、葵坂が画題となっている。右手奥に描かれるのは、日向国延岡藩内藤家の上屋敷、左の葵坂の上に見える建物は上総国一宮藩加納家の上屋敷である。手前の二人は画面手前の通りを右手に行ったところにある、金比羅宮で寒参りをしてきたところであろう。屋台が2つ見えており、奥が二八蕎麦、手前は「太平しっぽく」で、太平椀と呼ばれる大椀に竹輪や麸などの具をのせた蕎麦のこと。
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