『北斎漫画』の「漫画」はどういう意味なの?という話
葛飾北斎の代表作である『北斎漫画』は、人物や動物、植物、建物、風景など、ありとあらゆる題材が描かれた絵本です。例えば、こちらは笠をかぶって踊る男性の動作を捉えたもの。一つ一つ切り取って順番に並べれば、パラパラ漫画のように踊り出しそうです。
あるいは顔を引っ張ったり、紐や箸を使ったりして、変顔をする男性たち。右上の男性はちょっとキメ顔なのが笑えます。
清水勲氏は、コマ表現や吹き出し、キャラクター設定などから、『北斎漫画』を現代のマンガの原点に位置付けていますが(註1)、現在の私たちが親しんでいる「マンガ」、特にコマの連続によって物語が描かれるストーリー漫画の要素は『北斎漫画』にはなく、現代の「マンガ」とは完全に別物であると言えるでしょう。
では、『北斎漫画』の「漫画」は、どのような意味で使われているのでしょうか。北斎自身が「漫画」という言葉を定義していないため、他の資料から類推するしかありません。
「漫画」という言葉の先行例となるのが、『四時交加(しじのゆきかい)』という、四季折々の季節に江戸の町を行き交う人々を描いた絵本です(画像は国立国会図書館蔵)。山東京伝によるスケッチを元に、京伝の師匠である北尾重政が完成作に仕上げました。
この絵本の冒頭に、山東京伝自身による序文があります(画像は国立国会図書館蔵)。
京伝は、自分が経営する煙草屋の前を行き交う老若男女を眺め、その姿を「漫画」したというのです。文章を思い付くまま、とりとめもなく書くことを「漫筆」と言いますが、「漫画」はその絵画版といったところで、思いつくままとりとめもなく描いたと解釈するのが自然でしょう。
それでは、『北斎漫画』の「漫画」も、思いつくままとりとめもなく描いた絵という意味で解釈してよいのでしょうか。
『北斎漫画』には、ありとあらゆる題材が山のように描かれており、とてもとりとめもなく描いたというレベルではありません。そのため、次のような異論が出ています。林美一氏は、「漫画」はもともとヘラサギという鳥の異名であり、ヘラサギは飽くことなく小魚を捕まえて食べることから、京伝も北斎も、単にほしいままに描いたのではなく「飽くことなく渉猟する」という意味をこめていたと指摘しています(註2)。また、宮本大人氏も林氏の指摘を踏まえ、「漫画」には「ありとあらゆる事物を、ありとあらゆる描法で描き尽くすという、その行為の全体、およびその結果としての膨大な数の絵、あるいはそれらが集められた書物のありよう」という意味があったと述べています(註3)。
しかしながら、「漫画」=ヘラサギと当時の文献に記されていたとはいえ、それほど有名な話とは思えず、北斎が「漫画」に「飽くことなく渉猟する」という意味があったことを知った上で使い始めたという可能性は低いと筆者は考えています。
では、北斎は「漫画」にどのような意味を込めていたのでしょうか。それを解き明かすヒントが『北斎漫画』初編の序文にあります。
『北斎漫画』初編の序文は、半州散人と号した尾張藩士が執筆しています。右端の序題を見ると、「北斎漫画」という言葉はなく、「伝神開手序」とあります。『北斎漫画』の題名の一部、角書にあたる「伝神開手」を採用しているのです。
この序文を読みますと、北斎の絵がありとあらゆる題材を描いていることや、北斎の筆によって題材の「神」が伝えられていること、絵を学ぶ手本として優れていることなど、北斎のことをベタ褒めしています。そして最後に、「如夫題するに漫画を以てせるは翁のみづからいへるなり」と、北斎がこの本を「漫画」と名付けたというのです。
北斎は『北斎漫画』を制作するにあたり、中国の画譜である『芥子園画伝』や鍬形蕙斎の『諸職画鑑』(下図)や『略画式』など、過去の絵手本を参考にしていることはすでに指摘されているところです(註4)。
おそらく北斎は、自らが参考にした立派な絵手本と比べると、自分の絵はそこまでしっかりしていない、取るに足らないものだとあえて卑下して、とりとめもなく描いた「漫画」という言葉を選んだのではなかろうかと推測されるのです。(もちろん北斎の本心としては、かなりの自信を持っていたでしょうが。)
半州散人が『北斎漫画』初編の序文を執筆するにあたり、「北斎漫画序」ではなく「伝神開手序」と記したのは、北斎の絵は「漫画」と呼ぶべき気軽なものではなく、「神」を伝える立派な絵手本だと考えていたからだと思います。
「漫画」という言葉に謙遜や卑下のニュアンスがこめられるのは、『北斎漫画』と近い時期に刊行された他の絵本からも類推されます。
『北斎漫画』初編と同じ文化11年(1814)に刊行された、合川珉和による『漫画百女』という女性たちの生活を描いた絵本があります。これは、元禄8年(1695)に刊行された菱川師宣の『和国百女』という絵本を、今風の女性の姿で描き直してみようという、パロディー的な試みとして制作された絵本です。
また、文化14年(1817)刊の立林何帠の『光琳漫画』は、尾形光琳そのものが描いたちゃんとした絵画を集めた画譜ではなく、漆器や蒔絵などに用いられた光琳風の植物文様を収録したものとなっています。
『漫画百女』にしろ『光琳漫画』にしろ、本格的なものよりも一段劣るというニュアンスを「漫画」という言葉に含ませていると察せられるのです。
このように、謙遜して「漫画」と称した北斎の絵本ですが、当初は一冊で簡潔する予定だったにも関わらず、評判を呼んで、続々と続編が刊行されるこことになりました。さらに、北斎の門人である魚屋北溪も『北溪漫画』を、東南西北雲も『北雲漫画』を刊行。時代がくだり、幕末・明治には月岡芳年の『一魁漫画』や河鍋暁斎の『暁斎漫画』などのように、「漫画」という言葉はどんどんと後の世代に受け継がれていきます。この時点になると「漫画」という言葉は、『北斎漫画』のようにありとあらゆる題材を集めた絵本という、新しい意味を獲得するようになってきたと言えるでしょう。
ちなみにですが、現代の「マンガ」につながる意味を「漫画」という言葉が持つようになるのは、明治28年(1895)、小泉一瓢が『一瓢漫画集』において、英語のカリカチュアの意味で「漫画」を使い始めたのが最初と言われています(註5)。
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文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)