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義経の劇的すぎる生涯を浮世絵でたどってみた

日本人の古くからの価値観を表す言葉に「判官贔屓ほうがんびいき」があります。源平合戦で活躍しながら兄頼朝にうとまれ、滅ぼされた源義経が判官の職にあったことから、悲劇的な最期をとげた人物に同情して肩を持つ感情のことを言います。

この語源となっている源義経(1159~1189)の物語は、『平家物語』などを代表とする軍記物の中でも特に印象深いエピソードとして、江戸時代の芝居や小説などでも盛んに題材となり、数多くの浮世絵にも描かれました。なぜ、義経の人物像はこれほどまでに人々の心を惹きつけてきたのでしょうか。義経の生涯とその境遇の変化を、ここでは〈勝者〉と〈敗者〉をキーワードに、浮世絵を通してたどってみましょう。

〈敗者〉からのスタート

①歌川広重 義経一代図会 発端 三子を伴て常盤御ぜん漂ろうす 大判錦絵 天保5~6(1834~35)頃

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常盤御前(1138~?)が今若、乙若、牛若の三人の子とともに、雪の中を歩む様子を描いた歌川広重の作品。常盤御前の胸に抱かれるのが、のちに義経となる牛若です。

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平安時代末期、保元の乱(1156)で頭角を表した平清盛と源義朝でしたが、続く平治の乱(1159)で義朝は清盛に敗れて殺害され、源氏の勢力は大きく衰退します。義朝の側室であった常磐御前も、大和国へと逃れることとなりました。

義経は、その生涯を敗者としての境遇からスタートさせたことになります。義経は鞍馬寺に預けられたのち、僧になることを拒んで寺を飛び出し、奥州藤原氏の藤原秀衡のもとに赴いて庇護を受けることになるのです。

②月岡芳年 平清盛炎焼病之図 大判錦絵3枚続 明治16年(1883)8月

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時代は下って平家の全盛時代。平清盛は仁安2年(1167)に太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇の后とするなど栄華をきわめ、平氏全盛の世の中を作り出します。しかしその振る舞いは宮廷内で反感を買い、武士の支持をも失っていきました。

そんな中、以仁王もちひとおうの挙兵を受けて諸国の源氏が蜂起。治承4年(1180)8月、義経の兄である頼朝が伊豆で挙兵、成長した義経は黄瀬川の陣で頼朝のもとに駆けつけ、涙の対面を果たします。

そして各地で平氏が劣勢となる中、清盛は病に倒れます。図は熱病に侵されて苦しむ、晩年の平清盛(1118~81)を描いた月岡芳年の作品。身を反り返して苦しむ清盛の背後に見えるのは、閻魔大王や地獄の獄卒たちの姿。ここからは逆に、平家の敗者としての時代が始まるのです。

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〈勝者・義経〉の時代

③歌川広重 義経一代記之内 義経智略一の谷鵯越逆落し 大判錦絵 天保5~7年(1834~36)頃

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『平家物語』などで知られる義経の鵯越ひよどりごえ逆落としの様子を描いた、歌川広重の作品。源頼朝の命をうけた範頼・義経や源義仲ら源氏の攻勢によって、平家は各地で敗戦を繰り返します。しかし一時期権勢を誇った源義仲が没落し、頼朝に滅ぼされたころ、西国では平氏が再び力を取り戻しつつありました。

後白河法皇は寿永3年(1184)1月、平氏が持ち去った三種の神器の奪還を頼朝に命じ、範頼・義経による追討の軍が出されます。両軍が激突したのが一の谷の戦い。義経はわずか70騎で騎馬のまま鵯越の断崖絶壁を下り、平家側を奇襲して大混乱に陥れ、戦いを勝利に導きます。広重が描いた本図は緊迫した場面でありながら、一見風景画を思わせる落ち着いた雰囲気が印象的です。

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拡大してみると、何だか可愛らしい源氏の武者たち。左には弁慶らしき馬にのった人物が見えます。右で馬を持ち上げているのは、馬が怪我してはならないといって自ら馬をかついで鵯越を駆け下りた逸話で知られる畠山重忠と思われます。

④歌川芳虎 西海蜑女水底ニ入テ平家ノ一族ニ見 大判錦絵3枚続 天保15~弘化2年(1844~45)頃

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一の谷の戦いに続いて屋島の戦いでも源氏に敗れた平家一門は、さらに義経に攻められて瀬戸内海を転々とします。元暦2年(1185)3月、平家方は渡辺水軍や河野水軍などを味方につけた義経率いる源氏方と最後の決戦に及び、海中に滅びました。

図は歌川国芳の弟子である歌川芳虎が描いた一図で、三種の神器を探すように命じられた海士たちが海の底で見た、平家一門の亡霊たちの様子。入水した安徳天皇や、平知盛、平教経ら平家方の猛将たちの姿が見えています。

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右手に平知盛の姿が見える
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安徳天皇と平家の人々

不遇の幼少期を過ごした義経。平家を相手にした連戦連勝は、勝者・義経としての、短い栄光の時代であったといえるでしょう。

再び〈敗者〉となる

⑤月岡芳年 源平盛衰記堀川夜征 大判錦絵3枚続 元治元年(1864)8月

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平家を滅亡へと追い込んだ義経でしたが、次第に頼朝からうとまれるようになります。文治元年(1185、8月改元)10月、頼朝は土佐坊昌俊に京堀川の義経邸を襲撃させました。図はその激闘の様子で、義経方の江田源蔵弘綱らの血まみれになりながらの奮戦が描かれています。この戦いは義経が勝利したものの、佐藤忠信などの郎党は頼朝方により次々に殺害されていきました。

図は若き日の月岡芳年が描いた作品で、両軍血まみれになりながらの激闘が迫力たっぷりに描かれています。

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画面右上に馬上の義経の姿が見える
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体が真っ二つになるというものすごい描写も

このあと、追い詰められた義経は、幼い頃庇護を受けた奥州の藤原秀衡のもとに再び落ち延びましたが、文治5年(1189)、衣川館に攻められてついに自害します。享年31。〈敗者〉→〈勝者〉→〈敗者〉と、めまぐるしく境遇が変化した義経の短い生涯が幕を閉じました。

浮世絵に描かれた義経の肖像

⑥歌川芳虎/重清/ 岐山 書画五拾三駅 伊勢 石薬師 逆桜 大判錦絵 明治5年(1872)10月

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最後に、浮世絵に描かれた義経の肖像を紹介しましょう。図は歌川芳虎の作品で、甲冑姿の義経とともに、背後には満開の桜が見えています。東海道の宿場にちなむ風物を題材にしたシリーズの一点で、図は石薬師宿にあった義経逆桜という桜を題材としています。

以上、源義経の劇的すぎる生涯を浮世絵でたどってみました。

文:渡邉 晃(太田記念美術館 上席学芸員)


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