浮世絵の摺りの違いを楽しむ豆知識ー葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」
葛飾北斎の「冨嶽三十六景」の一つである「山下白雨」。「神奈川沖浪裏」と「凱風快晴」に並ぶ三役の一つに数えられているほどの代表作です。通称「黒富士」とも称されるこの名品を、太田記念美術館では、2点、所蔵しています。
さて、ここで問題です。この2枚の黒富士、どちらが先に摺られたものでしょうか?
浮世絵版画は木版画ですので、1枚だけではなく、たくさんの枚数を摺ります。一般的には、最初に「初摺」と呼ばれる200枚を摺り、人気があって売れ行きが好調だと、摺り増しをしました。多い時には7,000~8,000枚を摺ったと伝わっています。
当然のことながら、早く摺ったものの方が価値があるとされています。たくさん摺っている間に木の板が痛み、線が欠けたりぼやけたりして、作品の美しさが徐々に失われてしまうからです。
先ほどの2枚の黒富士、どちらが摺りが早いか、お分かりになったでしょうか。より比べやすいように、富士山の山頂部分を拡大してみましょう。左側が1枚目、右側が2枚です。
いかがでしょうか?富士山の稜線や山頂の白い雪は似たような形をしており、それほど分かりやすい違いはありません。ほとんど同じように見えるのではないでしょうか。
じっくり比較した後で、下にスクロールしてみてください。
実は、ちょっと覚えておくと誰でも簡単に見分けることができる、分かりやすい目印があるのです。それがこちらの赤い丸で囲った部分。山頂中心部にある丸い点です。
点が2つある右側の作品が、より摺りの早い作品となります。もともとは点は2つあったのですが、何度か摺っている間に右側の点が欠けてしまったようです。(このことは、永田生慈氏が『北斎美術館』第2巻(集英社、1990年)ですでに紹介されています。)
ちなみに、浮世絵の摺りの早さを見極める際、どの作品でも分かりやすいポイントとなるのが、タイトルの文字です。北斎の黒富士でも比べてみましょう。
摺りが早い右側の方が文字の線がよりシャープとなり、摺りの遅い左側の方は文字の線がかすれ、少し太くなっています。「冨嶽」の文字にその特徴がよく出ています。文字はもともと線が細いので、比較するにはご覧のように最適なのです。
しかも北斎の黒富士の場合、さらにこんな違いが見られます。こちらも永田生慈氏がすでに指摘されているところですが、北斎の落款である「北斎改為一筆」の最後の「筆」の字にご注目。
右側の「筆」の字は筆の縦棒が長く伸びていますが、左側の「筆」の縦棒は下の方が欠けてしまっています。ここからも、左側の作品の方が摺りが後であることが分かります。
以上をポイントにしていただけると、「冨嶽三十六景 山下白雨」の摺りの早い遅いを見極めることができるのです。
なお、浮世絵版画は、現代の版画のように、1枚ずつに番号が記されているということはありません。したがって私たちが分かることは、2枚の作品を比べた時にどちらの摺りが早いと言えるのかという程度であり、この作品は間違いなく初摺(最初の200枚)であると100%断言することはできません。あくまで、初摺と言っても大丈夫なほど摺りが早いであろうというところまでです。
また、先ほど紹介した摺りが後の方の作品も、初摺(最初の200枚)に含まれないとも断言できません。あくまで、2枚を比べた上での早さの違いなのです。
もちろん摺りの早い作品の方が、浮世絵師の制作意図をより正確に反映されていると言えます。一方で、たとえ摺りが早くても、保存状態が悪く、紙が痛んだり、変色していたりすると、作品の雰囲気は大きく変わってきてしまいます。浮世絵を鑑賞する際の一つの目安として、摺りの良し悪しを楽しんでもらえれば幸いです。
さて、太田記念美術館にて開催中の「北斎とライバルたち」展では、2022年6月26日まで、北斎の「冨嶽三十六景 山下白雨」を1点、展示しています。はたしてどちらの作品が出品されているのでしょうか。ぜひ会場で見極めてみてください。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)