北斎は転職して浮世絵師になったという話
北斎が75歳の時に執筆した『富嶽百景』初編の跋文には、「己六才より物の形状を写の癖ありて」とあります。北斎自身が、6歳の頃から物の形を写生する癖があったと語っているのです。物心がついた頃から、絵を描くことが大好きだったのでしょう。
しかしながら、北斎ははじめから浮世絵師を目指していたかというと、そうではありません。実は、浮世絵師を志す前、版木に文字や絵を彫る「彫師」の仕事をしていたのです。
このことは、北斎とタッグを組んで読本を制作していた曲亭馬琴も記しています。こちらは北斎からもらった手紙に、馬琴が朱書きの覚書を貼り付けたもの。(画像は『曲亭来簡集』月之巻、国立国会図書館蔵)
冒頭に「北斎はじめは剞劂をまなびしが捨て」とあるように、北斎ははじめは剞劂(きけつ)、すなわち版木を彫ることを学んでいたのです。
また、飯島虚心の『葛飾北斎伝』(蓬枢閣、1893年)には「鉄蔵十四五歳の時、彫刻家某に就き、彫刻を学ぶ。」とあります。鉄蔵とは北斎の名ですが、14~15歳の頃、彫師に入門して修行したようです。
ただし、高橋太華の「葛飾北斎」(『少年雅賞』学齢館、1893年)に「幼き時其父北斎を彫刻師となさんとて」とあるように、父親が北斎を彫師にさせようと思っていた可能性はあります。だとするならば、北斎は彫師になりたくてなったのではないのかもしれません。
いずれにしろ、北斎は手先が器用で、彫りの腕前はメキメキと上達していったようです。高橋太華「葛飾北斎」(前掲書)には「頗ぶる器用の生れにて運刀の法を心得、十四五歳の頃は早小本を巧に彫り得るに至れり。」とあります。小刀の使い方を覚え、早い段階で小さな本は彫れるようになりました。
実際に北斎が版木を彫ったと伝えられている書籍があります。雲中舎山蝶の洒落本『楽女格子』です。この本の最後の6丁分ほどの文字の彫りは北斎が担当したことを、北斎の『画本彩色通』二編の序文を書いた石塚豊芥子という考証家が記録しています。
『楽女格子』は安永4年(1775)の刊行ですので、北斎はこの時16歳。現在確認されている、北斎のもっとも早い「仕事」です。(画像は、無声学人(朝倉無声)前掲書より転載)
さて、4~5年、彫師の修業をした北斎でしたが、19歳の頃、彫師の仕事をやめ、浮世絵師に転職する一大決心をしました。
彫師として一人前の技術を身に付けつつも、やはり小さな頃から好きだった絵を描きたいという気持ちがどんどんと湧き上がっていったのでしょう。勝川春章に入門し、翌年、20歳の頃には早くも浮世絵界にデビューすることになります。
通常、浮世絵師になろうとする場合、15歳頃に入門するのが一般的です。北斎は10代の貴重な時期を、同世代のライバルたちから4~5年遅れてスタートすることになりました。逆に、木版画を彫るという裏方の作業の経験が、浮世絵を描く上でプラスに働いた可能性もありますが。いずれにしろ、北斎といえど、人生の歩みははじめから順風満帆でも一直線でもないのです。
しかも、その後の北斎は、画号を変えたり、画風を変えたりと、一つの枠にとどまることのない、さらなる紆余曲折の人生を送ることになっていきます。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)