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北斎が写楽に嫉妬していたかも、という話

東洲斎写楽は、葛飾北斎よりも一世代以上前に活躍したというイメージがあるかもしれません。写楽の活躍が寛政6~7年(1794~95)。北斎の「冨嶽三十六景」の刊行が天保元~4年(1830~33)。その間、35年近くも離れています。

図1

しかしながら、実は、写楽と北斎の年齢はそれほど離れておりません。

写楽の正体について、さまざまな説があるということはご存じでしょうが、現在の浮世絵研究では、阿波国徳島藩の能役者である斎藤十郎兵衛であるとする見解が一般的になっています。この斎藤十郎兵衛、「写楽の会」による菩提寺の調査によって、文政3年(1820)に58歳で亡くなったこと、すなわち、宝暦13年(1763)生まれであることが平成9年(1997)に確認されました。

北斎は宝暦10年(1760)生まれですので、写楽は北斎よりも3歳年下ということになります。

写楽が突如浮世絵界に現れたのが寛政6年(1794)5月ですが、この頃、北斎は何をしていたのでしょうか。

北斎は安永8年(1779)、20歳の時に、勝川春朗(しゅんろう)の画号で浮世絵界にデビューして以来、ほぼ毎年コンスタントに役者絵を描き続け、80点以上の作品が確認されています(註1、2)。後の北斎らしい個性は発揮されておらず、一世を風靡するには至りませんでしたが、中堅どころの絵師として堅実な仕事をしていました。それが、寛政6年(1794)、35歳の時に勝川派を離脱してしまいます。

図2

すなわち、写楽が浮世絵界にデビューする数か月前に、北斎は15年間も続けていた役者絵の制作をパタリとやめてしまったのです。

ここで、寛政6年(1794)頃の役者絵の世界の動向を見てみましょう。

それ以前の役者絵の世界は、北斎の師匠である勝川春章をリーダーとする勝川派が中心となっていました。北斎もその一翼を担っていた訳です。しかし、寛政4年(1792)に勝川春章は50歳で没。春章の一番弟子である勝川春好は、寛政6年(1794)頃まで、すなわち50歳頃までには中風にかかり、右手で筆が持てなくなってしまい、第一線から退きます。

そんな大御所たちが姿を消した中、寛政6年(1794)、役者絵界では3人のニュー・ジェネレーションが頭角を現します。

1人目は、勝川春英。宝暦12年(1762)生まれですので、北斎よりも2歳年下ですが、浮世絵師としてのデビューは北斎よりも1年早いため、北斎の兄弟子にあたります。写楽よりも早く役者大首絵を手掛けています。寛政6年(1794)では33歳。春章、春好に代わり、勝川派を牽引する存在となります。

1939勝川春英

2人目は、歌川豊国。明和6年(1769)生まれですので、北斎よりも9歳も年下。寛政6年(1794)1月、26歳の頃、写楽のデビューよりも前に「役者舞台之姿絵」というシリーズをヒットさせ、一躍、人気役者絵師として注目されるようになります。

2361歌川豊国

そして、3人目が東洲斎写楽。その正体が斎藤十郎兵衛とするならば、寛政6年(1794)5月にデビューした時は32歳です。活動期間はわずか約10か月。その独特の似顔表現は否定的な意見もあったでしょうが、当時は話題となったことは確かでしょう。

1904東洲斎写楽2

勝川春英、歌川豊国、東洲斎写楽といった役者絵界のニュー・ジェネレーションたちは、いずれも北斎より年下でした。そんな彼らが、画期的な作品を次々と生み出し、役者絵界は新たな活気に沸くのです。

さて、ここで北斎の気持ちになって考えてみましょう。

寛政6年(1794)、勝川派を離脱した経緯については、兄弟子・春好との不仲説や狩野派を学んだことによる破門説など、いくつかの説がありますが、明確なことは分かっていません。しかし、北斎がデビューから15年にも渡って心血を注いできた役者絵の世界から距離を置くようになったのは確かです。

そんな自分とちょうど入れ替わるように、自分より若い年齢の絵師たちがメキメキと才能を発揮し、自分ではたどり着けなかった新たな作風で話題となっていく。北斎は、その熱気をはたしてどのような気持ちで眺めていたのでしょう。

北斎が写楽、あるいは春英や豊国の役者絵に対し、どのような感情を抱いていたのか、それを知る資料は残っておりません。しかしながら、中堅としての実力を備えるようになったとはいえ、大きなヒットもなく、勝川派を離脱することとなった北斎。その直後、役者絵が巷で盛り上がっていることに対して、何の感情も抱かなかったというのもあり得ないでしょう。

これはあくまで筆者の空想ですが、もしかしたら、北斎は写楽を含めた若い世代の絵師たちの才能に、嫉妬や悔しさを覚えていたかもしれません。

ちなみに、勝川派を離脱した後の北斎。狂歌絵本や摺物といったジャンルで好事家たちからの熱い支持を得ますが、日本全国にその名前が知れ渡るようになるには、曲亭馬琴とタッグを組んで制作した読本挿絵を手掛けるまで待たなくてはなりません。離脱してから約13年も先、48歳の頃となります。


註1 伊澤慶治「勝川春朗の役者絵考証(未定稿)について」『浮世絵芸術』79号、1983年。

註2 根岸美佳「春朗期の役者絵再考証(未定稿)①~④」『北斎研究』46~48、51号、2011~13年。

なお、写楽の正体の考証にご興味のある方は、こちらをご参照ください。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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