安藤広重はいつから歌川広重になったのかという話。
浮世絵についての講演会をした際、「よく聞かれる質問ベスト3」に入るのが、「歌川広重は安藤広重と言っていませんでしたか?」というご質問です。現在、美術館の展覧会や浮世絵の画集では「歌川広重」とするのが一般的ですが、一定以上の年齢の方々は、昔、学校で「安藤広重」と学んでいたため、違和感を感じられるそうです。
この質問については、広重は安藤家に生まれたので、かつて「安藤広重」と呼ぶことがありましたが、広重自身が絵師として「安藤広重」を名乗ったことは一度もありません。そのため、歌川派の絵師として「歌川広重」と呼んだ方が適切だということで、現在は「歌川広重」が一般的な呼び名になっている、とお答えしています。本名(安藤)とペンネーム(広重)がごっちゃになっているのはおかしいからですね。
あまりによく聞かれる質問なのですが、ふと一つの疑問が頭に浮かびました。いったいいつから、「安藤広重」は「歌川広重」と呼ばれるようになったのだろうかと…。
そこで、日本史の教科書では、広重はどのように表記されているのかを調べてみることにしました。
調査した場所は、東京都江東区にある教科書図書館。戦後の検定教科書と現行教科書を収集している図書館です。こちらで、昭和20年(1945)以降の高校の日本史教科書を閲覧してみました。
まず調べてみたのが、日本史の発行者別占有率が最も高い、山川出版社の高校の日本史教科書。同じ山川出版社の教科書でも、いくつかの系統がありますが、最も古い昭和26年(1951)印刷発行の『日本史』には、以下のような浮世絵の説明があります。
なお江戸では浮世絵が天明・寛政のころにその隆盛期に達し、春信・歌麿・写楽など、美人画に役者絵に有名な画人が生まれた。しかし後世になればなるほど巧妙に美しくなっているが、それだけ生気に乏しく画題がみだらになった。この弊に対し、風景などを描くことによって構図・色彩ともに浮世絵に新生面を開いたのは、葛飾北斎と安藤広重である。西洋画の遠近法なども早くから諸流にとりいれられた。
戦後すぐの時点では、「安藤広重」と表記されているのです。ちなみに、この時の山川出版社の教科書に登場する浮世絵師は、師宣、春信、歌麿、写楽、北斎、広重の6名。ここにもう1名の浮世絵師が追加されることになるのは、まだ先の話です。
それからしばらくの間、広重は「安藤広重」と称されます。昭和35年(1960)の『詳説日本史』では、以下のように、「東海道五十三次」が代表作であるという説明が増えますが、安藤広重であることは変わりありません。
錦絵はその後しだいに衰えたが、浮世絵の最後を飾るものとして葛飾北斎と安藤広重が出た。ふたりとも風景版画に名作を残したが、北斎の「富嶽三十六景」、広重の「東海道五十三次」は代表作である。
大きな変化があらわれたのは、昭和55年(1980)の『要説日本史 再訂版』です。ここで、「安藤(歌川)広重」と、括弧して歌川の名前が追加されるのです。
天保期には葛飾北斎と安藤(歌川)広重らの風景画が人気を博した。
さらに、その2年後、昭和57年(1982)の『日本史 新版』では、「歌川(安藤)広重」と、安藤と歌川の位置が逆転して、歌川の方がメインとなります。
天保ごろにでた葛飾北斎と歌川(安藤)広重とは多くの風景版画を発表し、浮世絵発展の最後をかざった。
興味深いのは、山川出版社以外の日本史教科書も、広重の表記の仕方が変わっているということです。
実教出版は昭和52年(1977)の『日本史 改訂版』では「安藤広重」だったのが、昭和58年(1983)の『日本史』では「歌川(安藤)広重」に。同様に、東京書籍は昭和58年(1983)の『日本史』から、清水書院は昭和59年(1984)の『高等学校 日本史』から、「歌川(安藤)広重」と表記するようになりました。
すなわち、昭和57~59年(1982~84)を境に、「安藤広重」から「歌川広重」の方へと主たる呼び方が変わったのです。(※この時どのような経緯があったかについては、まだ調べられていませんので、もしご存じの方がいらっしゃれば、ご教示ください。)
さて、この「歌川(安藤)広重」という併記の仕方、山川出版社の教科書ではしばらく続きますが、12年近く経った平成6年(1994)、『詳説日本史』において、ついに安藤の名前が消滅し、「歌川広重」とだけ書かれるようになります。
天保ごろには、錦絵の風景画が流行し、葛飾北斎・歌川広重らの錦絵は、民衆の旅への関心と結びついて歓迎された。
これ以降、山川出版社の教科書では、「歌川広重」とのみ表記され、現行の教科書まで続いています。
しかしながら、山川出版社以外の現行教科書を見てみますと、清水書院の『高等学校 日本史B 新訂版』(平成30年)では「歌川広重」ですが、明成社の『最新日本史』(平成25年)、東京書籍の『新選日本史B』(平成30年)、実教出版の『高校日本史B 新訂版』(平成30年)と『日本史B 新訂版』(平成30年)では、いずれも「歌川(安藤)広重」と表記されています。
浮世絵の専門書ではほとんど使われなくなった「安藤広重」の呼び方ですが、現行教科書の一部では、まだ「安藤」の名前が残っているのです。
ちなみに、山川出版社の教科書に登場する浮世絵師は、長らく、師宣・春信・歌麿・写楽・北斎・広重の6名だけでしたが、平成16年(2004)の『新日本史』で初めて歌川国芳の名前が登場します。
なお、歌川国芳は、風景版画のほか風刺版画を制作した。
また、同じ山川出版社の『詳説日本史』では、平成25年(2013)から、歌川国芳が登場するようになりました。
さらに、ちなみに、昨今の日本美術ブームで最も注目される伊藤若冲ですが、山川出版社の日本史教科書の中では見つけることができませんでした。伊藤若冲は、日本史の教科書の中では、重視されていないようです。
さて、これまでの話をまとめますと、山川出版社の高校の日本史教科書における広重の表記は、
・昭和26年~昭和52年(1951~77) 安藤広重
・昭和55年~昭和56年(1980~81) 安藤(歌川)広重
・昭和57年~平成4年(1982~92) 歌川(安藤)広重
・平成6年~(1994~) 歌川広重
となります。
皆さんは、どの時代の教科書を使っていたでしょうか?自分が昔、広重をどのように呼んでいたのか、思い出してみてください。
なお、専門家たちの間でいつから歌川広重と呼ぶのが一般的になったのかについては、後日、別の記事で考察してみたいと思います。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)
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