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富士山はどれくらい遠くから見えるのか、北斎と広重に聞いてみた。

歌川広重の「冨士三十六景 下総小金原」。手前に大きく描かれた馬が印象的な作品です。小金原は幕府直轄の馬の放牧地。現在の千葉県北西部、松戸市、鎌ヶ谷市、船橋市付近に広がる原野でした。

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広がる草原の先に、富士山の姿が小さく見えています。

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この場所は富士山から100キロ以上離れているのですが、そもそも富士山はどれくらい遠くから見ることができるのでしょうか?

現代の科学技術を駆使すれば詳細に分析することは可能でしょうが、ここはやはり、富士山の絵を数多く描いた、葛飾北斎と歌川広重に聞いてみましょう。彼らが描いた富士山の絵の中で、最も遠くの地点から描いた作品を探してみたいと思います。

歌川広重「不二三十六景 上総鹿楚山鳥居崎」

歌川広重は富士山を題材とした揃物を2種類、手掛けています。最初に手掛けたのが、嘉永5年(1852)刊行の「不二三十六景」です。題名のとおり、全部で36点ありますが、富士山から最も遠い場所で描いたのは、「上総鹿楚山鳥居崎」です。

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鹿楚山とは鹿野山(かのうざん)のことで、現在の千葉県君津市に位置します。高さは約380mで、山頂には白鳥神社がありました。そこの鳥居から、江戸湾越しに富士山を眺めています。

広重は天保15年(1844)、この鹿野山の白鳥神社に参詣に来ていますので、実際に見た景色を参考にしているかと思われます。

葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」

次は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」を見てみましょう。天保元~4年(1830~33)頃に制作された、言わずと知れた北斎の代表作です。全46点ある中で、最も遠くから富士山を描いたのは「尾州不二見原」です。

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桶職人が巨大な桶の内側を槍鉋で削っています。不二見原とは富士見原のことで、現在の愛知県名古屋市中区富士見町周辺にあたります。北斎は文化9年(1812)と文化14年(1817)に滞在していますので、富士見原を実際に訪れている可能性はあります。

富士見原はその名前の通り、富士山が見えたという当時の記録が残されています。しかし実際は、聖岳を富士山と見誤ったもので、この場所から富士山を眺めることは、現実には不可能でありました。(種田祐司「富士見原から富士山がみえた?!」『北斎だるせん!』(展覧会図録)、名古屋市博物館、2017年)

歌川広重「富士三十六景 伊勢二見か浦」

再び、歌川広重の富士山を見てましょう。「冨士三十六景」は、安政5年(1858)、広重が亡くなる年に刊行された揃物です。先ほどの「不二三十六景」とは異なり、今度は縦長の構図になっています。全36点の中で最も遠くから富士山を描いたのは「伊勢二見か浦」。北斎の「冨嶽三十六景 尾州不二見原」よりも、さらに遠くに離れました。

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場所は現在の三重県伊勢市に位置する二見浦です。富士山から約200キロ離れていますが、沖にある夫婦岩の間から、ぎりぎり富士山を眺めることができるそうです。

葛飾北斎『富嶽百景』三編「兀良哈の不二」

さて、これ以上遠くの距離から富士山を眺めることはかなり難しくなってきましたが、北斎も負けてはいません。最後に北斎の『富嶽百景』という絵本を見てみましょう。こちらは三編の中にある「兀良哈の不二」という図です。

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「兀良哈」は本来はウリャンカイと読むのですが、鈴木重三氏によれば、北斎は「オランカイの不二」と読ませるつもりであったようです(『葛飾北斎 富嶽百景』岩崎美術社、1986年)。オランカイは中国北東部の満州。文禄の役の際、加藤清正が攻め入り、ここから富士山を眺めたという逸話が残っています。

異国の男女が、海の遠くに見える富士山を眺めています。もちろん、この場所から実際に富士山を見ることはできません。しかし、ここから富士山を眺めている加藤清正の浮世絵を、歌川国芳や歌川芳虎などが描いています。江戸時代の人々にとって、富士山が最も遠くから見える場所は、はるか海を越えた中国からだったようです。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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