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月岡芳年は明智光秀推しだった?というお話

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀ですが、以前に月岡芳年の「月百姿」を調査していた際、明智光秀とその家臣たちを扱った作品が多いなと感じていました。もしかしたら芳年は明智光秀が好きだったのかも?ということで、「月百姿」の明智光秀と家臣たちについて調べてみました。

そもそも「月百姿」とは、月にまつわる日本や中国の歴史や物語を題材とした浮世絵版画。全100点からなる膨大なシリーズですが、その中に戦国武将が登場する作品は13点あります。武将たちの名前を挙げると、以下の通り。

①武田信玄
②上杉謙信
③手友梅(三村政親の子)
④山中幸盛(尼子勝久の家臣)
⑤明智光秀
⑥斎藤利三(明智光秀の家臣) ※2作品に登場
⑦明石儀太夫(明智光秀の家臣)
⑧豊臣秀吉
⑨豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)
⑩蜂須賀又十郎(豊臣秀吉の家臣)
⑪前田玄以(豊臣秀吉の家臣) 
⑫戸田半平(酒井忠次の家臣)

手友梅や戸田半平のように、マイナーな武将もいますが、有名どころもズラリ。たとえば、三保の松原を眺める武田信玄。

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月夜に飛ぶ雁を眺めながら漢詩を詠む、上杉謙信。

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そして、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いの火ぶたを切るために、法螺貝を吹く豊臣秀吉(羽柴秀吉)。

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現代でも人気の戦国武将たちが、ピシッと決まったカッコいいポーズで描かれています。

しかし不思議なのが、先に挙げた12人の中に、明智光秀だけでなく、その家臣である斎藤利三と明石儀太夫も含まれていること。しかも斎藤利三は2点の作品に登場するという、他に例のない待遇です。明智光秀にしても、その家臣たちにしても、芳年の生きた幕末・明治に特別に人気があったという訳ではありません。他の武将たちの割合を考えれば、芳年は、光秀やその部下たちを意図的に選んでいるようなのです。

そこで、実際の作品を見てみることにしましょう。まずは、光秀の家臣である明石儀太夫を描いた作品。「弓取の数に入るさの身となれはおしまさりけり夏夜月 明石儀太夫」です。

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天正10年(1582)、みなさんご存じの本能寺の変が勃発。明智光秀が織田信長に反旗を翻します。それを知り、中国地方から急ぎ引き返した羽柴秀吉。秀吉を途中で討ち取ろうと待ち伏せていたのが、この明石儀太夫でした。しかし、加藤清正らによって返り討ちに。儀太夫は命からがら戦場を抜け出し、秀吉を討ち漏らしてしまったことをなんとか光秀に伝えます。しかしその晩、自責の念にかられ切腹。この絵では、作品名となった辞世の句を詠み終わり、短刀を鞘から抜いて切腹しようとする姿を描いています。

次は、同じく明智光秀の家臣である斎藤内蔵介利三。大河ドラマでは須賀貴匡さんが演じています。作品名は「月下の斥候 斎藤利三」です。

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明智光秀は、中国地方から引き返してきた羽柴秀吉と山崎で一戦を交えることになります。描かれているのは、山崎の戦いの前夜。斎藤利三が、川を挟んで対峙する敵陣を偵察するという場面です。馬に乗り、対岸を見つめる利三。利三は味方の不利を感じますが、そのまま秀吉との戦いに挑むことになります。

3点目は、同じく斎藤利三を描いた「堅田浦の月 斎藤内蔵介」です。「月百姿」において、同じ人物が2度も描かれるという例はありませんし、そもそも一つのシリーズの中で同じ人物が描かれるというのは、他の浮世絵師のシリーズでもまず聞くことはありません。

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山崎の戦いにより、光秀の軍勢は秀吉に敗れ総崩れに。斎藤利三も敗走することになります。作品は、ただ一人、馬を引き連れてあばら家のほとりにたたずむ利三。琵琶湖のほとり、近江国堅田にある乳母の家を探しているところです。実はこれより前、利三は馬を奪うために、乳母の息子をそれとは知らずに殺してしまっています。それを知った利三は切腹しようとしますが、乳母に止められます。この後、光秀の仇を討つため、京に向かいますが、捕らえられ、処刑されることになります。

最後は、大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公である明智光秀が、いよいよ登場です。作品名は「山城 小栗栖月」。

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こちらの場面も山崎の戦いの後。命からがら落ち延びようとする光秀でしたが、小栗栖で落ち武者狩りをする村人に遭遇します。芳年が作品の主役として描くのは、光秀ではなく、竹やぶの中でじっと息を殺してひそんでいる村人。腰には鎌をさしています。馬に乗ってやって来た光秀の命を狙い、竹槍で刺し殺したといいます。

光秀の姿はこんなに小さく…。芳年は光秀のこと、そんなに好きではなかったのでしょうか…。三日天下に終止符を打たれることになる光秀の切なさが、より一層強調されます。

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以上、「月百姿」の中から、明智光秀とその家臣たちを描いた4点の作品を紹介しました。これらの作品に共通しているのは、いずれも本能寺の変が起きた後の場面であること。すなわち、秀吉によって滅ぼされる運命にある光秀たちが、悲劇の人物として描かれています。これだけ点数が多いことから察するに、芳年は、勇ましく勝利した武将の姿だけでなく、はかなく命を落とした光秀たちに強いシンパシーを感じていたようです。

芳年が「月百姿」を手掛けたのは、明治18年(1885)から亡くなるまでの明治25年(1892)。この時の浮世絵は、写真や石版画などの新しいメディアに押され、最先端のメディアとしての地位を奪われていた時期でした。芳年自身、浮世絵に未来を感じることができず、弟子たちには、自分が亡くなった後、展覧会に出品するための日本画を学ぶよう勧めていたといいます。

織田信長という大いなる存在に抗いながらも、そのすぐ後に、豊臣秀吉という新たな時代の覇者に敗れ去ってしまった明智光秀。これはあくまで筆者の憶測ですが、芳年は、時代の波に呑み込まれた儚い運命の光秀に、浮世絵師としての自分の姿を重ねていたのかもしれません。

こちらの記事もぜひご覧ください。

参考文献:岩切友里子『芳年 月百姿』東京堂出版、平成22年(2010)。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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