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〈織田信長〉⇒〈小多春永〉? 浮世絵の人物名が何かおかしい件

 今回は浮世絵に描かれた、歴史上の人物の名前に関するお話。まずは、下の絵を見てみてください。

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歌川芳虎「名将四天鑑 小多春永公」大判錦絵 元治元年(1864)9月

5人の武将が描いてありますが、それぞれの武将の脇に名前が書いてあります。しかし「武智光秀」とは、、?「明智光秀」ではなく??

この作品、戦国時代の武将である織田信長とその家臣団を描いた絵なのですが、武将たちの名前は下記のように、史実の名前を微妙に一部もじったものになっているのです。

織田信長 ⇒ 小多春永

羽柴秀吉 ⇒ 真柴久吉

明智光秀 ⇒ 武智光秀

柴田勝家 ⇒ 芝田辰家

滝川一益 ⇒ 辰川左近将監

うーん、なんだかもやもやしますね。浮世絵では、なぜこのような微妙な名前のもじりが見られるのでしょうか?

浮世絵には描きにくい時代やテーマがあった

享保の改革のさなか、享保7年(1722)11月に幕府から出版業界に対して出されたお触れに、以下の内容のものがありました。(『御触書集成』ほか)

他人の家系・先祖のことなどを新版にすること禁止。子孫から訴えがあったら厳重に調査する。

徳川家のことを版行すること禁止。どうしても必要な時は奉行所の許可を受けること。

つまり、出版物などで大名や旗本、徳川家といった名家の家系に関わることを禁止するというもので、徳川家をあつかうのは特に注意という内容です。浮世絵や、後述する歌舞伎なども含めて、江戸時代にはこの基本ルールが常にありました。

さて徳川家をはじめ、大名や旗本の先祖たちに関わる時代として、すぐに思い出されるのが戦国時代。享保の改革の時代の数代前には、彼らの先祖が全国で戦いに明け暮れていたわけですね。つまり戦国時代は、出版物であつかうのは上記の規制に触れる可能性が高い、微妙な時代であったというわけです。

大ブームの『絵本太閤記』が発禁に?

しかし、さまざまな戦国大名たちが生き残りをかけて争った戦国時代は、創作物のテーマとして非常に魅力的な時代であることは言うまでもありません。

時代は下って寛政9年(1797)。大坂で豊臣秀吉の生涯を描いた読本『絵本太閤記』が出版され、江戸にも人気が飛び火。好評に応えるかたちで享和2年(1802)までに7編84冊が出版されました。

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武内確斎作・岡田玉山画『絵本太閤記』第二編 個人蔵 ※展示されておりません

上が『絵本太閤記』の挿絵。ブームはさらに加熱し、寛政12年(1800)7月には人形浄瑠璃「絵本太功記」が大坂で初演、翌年には歌舞伎にも移されて好評になります。

流行りものに敏感な浮世絵もこのテーマをほっておくわけがありません。歌川豊国や喜多川歌麿らが、太閤記物の浮世絵を手掛けるようになります。こちらは、歌麿が豊臣秀吉を描いた作品。慶長3年(1598)に醍醐寺で行われた、いわゆる醍醐の花見を描きます。

太閤記

喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」 大判錦絵3枚続 文化元年(1804)頃 ※展示されておりません。

52.002喜多川歌麿

絵を見ると、「太閤秀吉公」「淀殿」といった人物名が堂々と実名で描かれています。グレーゾーンのはずなのに・・。

喜多川歌麿や歌川豊国がこのような絵を出版したことを受けて、幕府が動きます。そして文化元年(1804)、歌麿や豊国らがお咎めをうけるという事件に発展するのです。原典となった『絵本太閤記』は発禁。中でも歌麿は手鎖50日の重い罰を受け、これが遠因で2年後になくなったとも言われています。

この際、幕府からは以下のような内容のお触れが出されました。

一枚絵や版本では、天正時代(1573~93)以降の武将の名前や紋所などを決して記してはいけない。

これにより、なんとなく見逃されていた戦国時代の武将名を絵に描くことが明確に禁止されてしまったのです。

もやもやする武将名・合戦名の数々

この筆禍事件の影響は強く、その後しばらく太閤記関係の浮世絵が出版されることはなかったのですが、幕末に近づくにつれ、様子を見つつ作品が作られるようになります。その際によく用いられたのが、史実の武将名や合戦名を一部もじるという手法。いくつかの例を見てみましょう。

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月岡芳年「桶狭間合戦 稲川義元陣没之図」大判錦絵3枚続 元治元年(1864)3月

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今川義元は「稲川義元」になってます。

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歌川芳虎「兄川合戦之図」 大判錦絵3枚続 安政6年(1859)6月

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浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦った「姉川合戦」は「兄川合戦」に・・。

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月岡芳年「太平記美濃霧中大合戦」 大判錦絵3枚続 慶応2年(1866)9月

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関ヶ原の戦いで活躍した福島正則は「吹嶋政守」に。

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落合芳幾「太平記英勇伝 八十七 岸田光成」 中判錦絵 慶応3年(1865)正月

石田三成は「岸田三成」に・・。絵を見れば誰もが一瞬でモデルはわかるのですが、あくまで「似ているけど一文字違うので本人ではありません」という体で出版されているということですね。

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歌川国貞(三代豊国)「仮名手本忠臣蔵」四段目 大判2枚続 万延元年(1860)6月

実は、こうした人物の名前のもじりは、歌舞伎などでは古くから行われているやり方だったりします。赤穂事件を題材にした『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年[1748]初演)では、江戸時代に起きた事件をそのままあつかうことは避け、舞台を室町時代に設定した上で「大石内蔵助」は「大星由良之助」とするなどの変更を行っています。

このように、江戸時代の創作物では幕府の規制をかいくぐるために、さまざまな工夫がこらされていたことがわかりますね。

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歌川豊宣「新撰太閤記 此人にして此病あり」  大判錦絵2枚続 明治16年(1883)6月

もちろんこれは江戸幕府があった時代までの話で、明治時代の浮世絵になるとそうした制限はなくなり、自由に歴史上の人物の名前が記載できるようになりました。上記の作品では「織田信長公」「明智日向守光秀」としっかり実名が記されています。

以上、浮世絵に出てくる人物名のお話でした。

文:渡邉 晃(太田記念美術館 上席学芸員)


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