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【オンライン展覧会】「北斎とライバルたち」(通期)

太田記念美術館にて、2022年4月22日~6月26日開催の「北斎とライバルたち」のオンライン展覧会です。

画像をクリックすると、より大きなサイズでご覧いただけますので、美術館で実物をご覧いただくような感じでお楽しみいただけます。
オンライン展覧会の入館料は1800円です。無料公開の下にある「記事を購入する」をクリックしてご購入ください。一度記事をご購入されると無期限でご覧いただけます。
いつでも、どこでも、お好きな時に「北斎とライバルたち」展をご鑑賞ください。

展示作品リストはこちら→http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/wp-content/uploads/2022/05/hokusai-rivals-list.pdf

はじめに

世界的に最もその名前が知られている浮世絵師、葛飾北斎。北斎は「冨嶽三十六景」に代表される風景画のほか、美人画、武者絵、読本挿絵、絵手本など、さまざまなジャンルを手掛け、高い名声を得ました。しかし当然のことながら、その頃に活躍をしていた絵師は北斎だけではありません。数多くの浮世絵師たちが、時には北斎と覇権を争い、時には影響を受けたり与えたりしていたのです。
葛飾北斎の展覧会はこれまでさまざまな美術館で幾度も開催されてきましたが、その多くが、北斎にのみ焦点を当てるものでした。北斎と並んで紹介されることがあるのは、北斎と同様に風景画を得意とした歌川広重くらいでしょう。
本展覧会では、歌川広重はもちろんのこと、東洲斎写楽や溪斎英泉、歌川国芳など、北斎と同時代に活躍した絵師たちを幅広く取り上げます。北斎とライバルたちがどのような関係にあったのかを掘り下げることによって、北斎がその当時どのように評価されていたか、そして、北斎の魅力はどこにあるのかを探っていきます。

Ⅰ.富士山対決

葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」。天保元~4年(1830~33)頃、北斎が70代前半に制作されたシリーズで、日本各地から眺めた富士山を描いています。歌川広重や歌川国芳、歌川国貞は「冨嶽三十六景」から着想を得たと思われる、富士山を題材とした揃物を発表しています。このコーナーでは、北斎の「冨嶽三十六景」とともに、北斎のライバルたちが描いたさまざまな富士山を紹介します。

№1 葛飾北斎「冨嶽三十六景 凱風快晴」天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

青く晴れ渡る空と、連なる波状雲を背景に、堂々とそびえ立つ夏の富士山を描く。山頂以外、雪は溶け落ち、富士山は赤茶けた地肌をのぞかせている。「凱風」とは、初夏の季節に南から吹く穏やかなそよ風のこと。気温が高い夏場はもやがかかりやすいが、凱風が吹き飛ばしてくれたのであろう。富士山の赤茶色、山裾の樹木の緑、快晴の空の青といった、わずかな色彩にもかかわらず、簡潔な構図によって、富士山の迫力ある存在感が見事に捉えられている。

№2 葛飾北斎「冨嶽三十六景 尾州不二見原」 天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

不二見原は尾張国にあった富士見原のこと。現在の愛知県名古屋市中区富士見町周辺。桶職人が槍鉋やりがんなで巨大な桶の内側を削っている。この桶がかたどる円の中をよく見ると、三角形の富士山が隠れていることを発見することができる。もしこの作品のタイトルを知らされなければ、桶だけに注意がいってしまって、富士山の存在を見落としてしまうかもしれない。幾何学的な画面構成とユーモアにあふれた、北斎らしい作品である。

№3 葛飾北斎「冨嶽三十六景 駿州江尻」天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

江尻は東海道の宿場町のひとつで、現在の静岡県静岡市清水区にある。葦の生い茂る土手の中を、突然一陣の風が吹き荒れた瞬間を描く。旅人たちは強風に耐えようと身をかがめるが、運悪く菅笠を飛ばされてしまった男がいたようで、気がついた時には、笠ははるか上空まで舞ってしまった。左下の女性が持っていた懐紙の束も風にさらわれ、まるで笠を追いかけるかのように、画面の対角線上を飛んでいく。風という形を伴わないモチーフに、北斎が真っ向から取り組んだ作品である。

№4 葛飾北斎「冨嶽三十六景 常州牛堀」天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

常州牛堀は、現在の茨城県潮来市牛堀、霞ヶ浦の東岸、常陸利根川と北利根川が合流する付近である。場面は、葦が生い茂る霞ケ浦の早朝の景色。苫舟の中にいる男が、釜の中の水を捨てたため、2羽のさぎがその音に驚いて飛び立とうとしているところである。画面全体に静けさが漂っているが、藍色の濃淡だけで摺られているということも、寒々とした寂寥感の演出に一役買っている。

№5 葛飾北斎「冨嶽三十六景 青山円座松」天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

円座松えんざまつとは、竜巌寺(現在の東京都渋谷区神宮前2丁目)という禅寺にあった巨大な松のこと。円蓋状の松は小山のように大きく、背後にそびえる富士山と対比されている。また、松の後ろには霞がたなびいており、松と建物の屋根、霞が作り出す白い三角形の余白は、富士山と点対称のような形をしている。幾何学的な画面構成を好んだ北斎らしい構図となっている。

№6 葛飾北斎「冨嶽三十六景 東海道吉田」天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

吉田は東海道の宿場町のひとつで、現在の愛知県豊橋市にある。「不二見茶屋」という看板が掲げられているように、遠く離れた富士山を望むことができる見晴らしの良い茶屋である。2人の女性は富士山がよく見える特等席に座り、茶店の店員による自慢げな案内に耳を傾けている。横長の四角い窓が富士山を額縁のように切り取っていて、まるで一枚の絵のように見せようとする北斎らしい演出となっている。

№7 葛飾北斎「冨嶽三十六景 登戸浦」天保元~4年(1830-33)頃 ※前期

登戸は現在の千葉県千葉市中央区。春のはじめ頃、浅瀬で潮干狩りにいそしむ人々を描く。海中に大小二つの鳥居が並んでいるが、大きな鳥居の内側に見える富士山を見逃がさないで欲しい。鳥居と水平線が作る三角形の中に、わざと目立たないように富士山が配置されている。この富士山の存在に気付いてもらうことが、北斎の狙いだったに違いない。

№8 歌川広重「冨士三十六景 相模江之島入口」安政5年(1858)4月 ※前期

「冨士三十六景」は、安政5年(1858)、歌川広重が数え62歳で亡くなる年に制作した揃物。北斎の「冨嶽三十六景」から25年以上経ってからの刊行であり、北斎が嘉永2年(1849)に亡くなってから10年弱の月日が過ぎている。広重は北斎と同じ場所を描いていることもあれば、そうでないこともあり、北斎を真似しているのではなく、広重独自の富士山を描こうとしていたのだろう。本図は、上の北斎(№7)と同様、鳥居越しに富士山を眺めるが、広重は実際にその場所でスケッチしていたかのような臨場感がある。

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