〈再開発エリア〉のルーツは江戸にあり!?
太田記念美術館では2020年10月10日~11月8日に「江戸の土木」展を開催。「土木」というキーワードで、江戸の成り立ちの様子を、浮世絵を通して眺めてみようという展覧会ですが、その見どころをご紹介します。
近年、東京ミッドタウン日比谷、虎ノ門ヒルズ、渋谷ストリーム、高輪ゲートウェイ周辺など、民間、あるいは自治体の主導による大規模な都市の再開発が相次いでいます。東京オリンピックの開催も予定されており、今後も東京駅周辺や虎ノ門周辺など、さまざまな地域で大規模再開発が計画されているそうです。
高輪ゲートウェイ付近のストリートビュー
こうした特定のエリアを、商業地を中心に再開発するという流れは、もちろん今に始まったことではありません。江戸時代にも、あるエリアごとに、商業地を移転したり、開発あるいは再開発することがたびたびあったようです。
吉原遊廓
まず、挙げられるのが唯一の公許の遊廓である、吉原遊廓でしょう。吉原はもともと庄司甚右衛門という人物が幕府の許しを得て、市中の遊女屋を一つにあつめ、現在の人形町駅の東側のあたりに建設されました。
地図の赤い部分が、元吉原のだいたいの位置。
その後、江戸の市街地は拡大を続け、吉原は明暦の大火の前年にあたる明暦2年(1656)10月、幕府により、浅草寺裏の日本堤へと移転が命じられます。沼地を埋め立てて土地が造成され、翌年の大火の後に移転が完了しました。なお葺屋町にあった吉原を元吉原、浅草に移転した吉原を新吉原と呼びます。
新吉原のだいたいの位置。
こちらは広重が描いた「東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図」。空から見たような俯瞰の視点により、新吉原の町並みを描いています。
周囲には幅2間の鉄漿溝(おはぐろどぶ)が巡り、東西180間(約327メートル)、南北135間(245メートル)の広大な敷地からなりました。最盛期には、遊女の数は3000人を超えたとも言われます。周囲を堀に囲まれた、遊興に特化した都市空間と言えるでしょう。
中央の大通りはメインストリートである仲之町で、春になると図のように桜が移植され、華やかに通りを飾りました。
広重「東都名所 吉原仲之町夜櫻」。別角度から見た、仲之町の大通りと桜の様子です。
芝居町
歌川広重「東都名所 二丁町芝居繁栄之図」
さて、遊廓と並んで、江戸の代表的な遊興のエリアが芝居町。上は現在の人形町に近い、二丁町という芝居町を描いた作品です。
ちなみに二丁町というのは、堺町、葺屋町という2つの町をまとめた呼び名。江戸三座と呼ばれる大劇場のうち、堺町には中村座、葺屋町には市村座がありました。ちなみに残りの一つである森田座は、現在の歌舞伎座に近い木挽町に位置していました。
二丁町のだいたいの位置。
二丁町の歴史は、寛永11年(1634)に市村座が同地で櫓をあげたことにはじまります。慶安4年(1651)には中村座や小芝居が禰宜町から移転を命ぜられ、2つの劇場を中心とする芝居町が発展していきます。
こちらは中村座。屋根の上に四角く突き出ているのが櫓で、中村座の座紋である「隅切角に銀杏」が見えます。櫓の下には芝居の内容を描いた絵看板が掲げられ、通りの両側には役者の名前を記したのぼりも描かれています。
こちらは市村座。櫓には市村座の座紋である「丸に橘」が見えています。二丁町は、この2つの大劇場だけでなく、人形浄瑠璃や、小芝居、見世物小屋、芝居茶屋なども軒を連ねた一大歓楽街でした。
歌川広重「名所江戸百景 猿わか町よるの景」
さて、約200年に渡って栄えた二丁町にも、終わりの時が訪れます。天保12年(1841)10月、中村座より出火した火事は、二丁町全体を焼いてしまいました。当時は、まさに天保の改革が進められようとしていた時期。
芝居町自体取り潰しの危機もあった中で、同地にあった中村座、市村座は浅草聖天町に移転。木挽町にあった河原崎座(※)も追って移転します。江戸三座、人形芝居の薩摩座、結城座など、多くの劇場が揃った新たな芝居町「猿若町」が誕生します。以降、明治の初めまで猿若町は繁栄を続けることになったのです。
(※)河原崎座は、森田座の控え櫓。森田座が財政的に苦しいときに、代わりに興行を行いました。
猿若町のだいたいの位置。
中洲新地
歌川豊春「浮絵 和国景夕中洲新地納涼之図」
さて、最後に紹介するエリアはこちら。隅田川の中流にかつて存在した、「中洲(なかず)」という幻の繁華街です。明和8年(1771)から付近にあった砂州の埋立が行われ、浜町と陸続きとし、翌年に中洲新地が誕生しています。
中洲新地のだいたいの位置(江戸の切絵図に描かれた中洲の砂州の形状から推定)
安永元年(1772)の『武江年表』の記事によると、既に茶屋93軒を数えて大いに賑わったとのことです。しかし風紀取締りや、隅田川の治水の問題もあり、寛政元年(1789)には取り壊されることになります。
歌川広重「名所江戸百景 三つまたわかれの渕」(※展示には出品されません)
上は中洲新地が取り壊されてから60年くらい後に広重が描いた中洲。蘆の茂る湿地帯のみが残り、繁栄を誇った中洲新地の面影は全くありません。
同地の現在の様子をストリートビューで見てみるとこんな感じでした。
文:渡邉 晃(太田記念美術館 上席学芸員)
※美術館での「江戸の土木」展の展示は終了しましたが、現在でもオンライン展覧会アーカイブズとして、同じ作品、解説を有料(800円)でお楽しみいただけます。リンク先からご入場ください。
その他の記事はこちらから。
2020年10月16日のニコニコ美術館にて、江戸の土木展が生中継されました。後半にはアダチ版画研究所協力により、後半には浮世絵の摺の実演もあります。ぜひご視聴ください。