江戸・明治時代の明智光秀はこんな顔をしていました
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公になった明智光秀。江戸時代から明治時代にかけて刊行された浮世絵の中にも、明智光秀の姿はさまざまに描かれています。今回は、太田記念美術館のコレクションの中から、明智光秀が登場する浮世絵を探してみました。
まずは、歌川芳虎の「名将四天鑑 小多春永公」。元治元年(1864)作。江戸時代は、戦国武将たちの名前をそのまま表記することができませんでしたので、それに近い名前に変更されています。
織田信長(小多春永)と4名の重臣たちという、豪華メンバーが勢揃いした作品です。重臣たちは、上から、羽柴秀吉(真柴久吉)、滝川一益(辰川左近将監)、明智光秀(武智光秀)、柴田勝家(芝田辰家)。
こちらが明智光秀のアップ。髭を生やし、鋭い目つきの厳めしい表情をしています。光秀の家紋である桔梗紋が、兜の前立となっています。
次は、歌川豊宣の「新撰太閤記 此人にして此病あり」。明治16年(1883)作。織田信長が明智光秀を打擲する場面です。
この作品に記された文章によれば、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後、六角義定(佐々木次郎)を匿う恵林寺を焼き討ちしようとした信長。光秀がそれを諫めたところ、信長は怒り出し、光秀を扇で叩きました。
こちらが光秀のアップ。信長に首根っこをおさえられていますが、歯を食いしばり、じっと耐えています。この仕打ちが、信長に反旗を翻すきっかけとなったのでしょうか。光秀は本能寺の変で信長を討ちます。
こちらの作品は、歌川貞秀の「太平記之内山崎合戦軍議斎堂熊之輔其主武智於諫言図」。文久3年(1863)作。本能寺の変の後、光秀は、中国地方から急遽戻ってきた秀吉と戦います。その山崎の戦いの中での一場面。
齋藤利三は、筒井順慶が裏切るであろうことを光秀に進言しますが、光秀はそれを相手にしませんでした。その後、筒井順慶の裏切りにより、光秀は秀吉に敗れてしまいます。画面の左端で座っているのが光秀です。
こちらが光秀のアップ。籠手のところに、家紋である桔梗紋が見えます。
最後は月岡芳年の「月百姿 山城小栗栖月」。明治19年(1826)作。山崎の戦いに敗れ、敗走する光秀。小栗栖で落ち武者狩りをする村人に竹槍で刺し殺されてしまったと伝えられています。
竹藪の中でじっと息を殺してひそんでいる村人。月岡芳年は、光秀の最期という場面を、光秀ではなく、名も無き村人の方を主人公として描きました。
こちらが光秀のアップ。その表情を読み取ることができないほど、小さく描かれています。月岡芳年は「月百姿」の中で、明智光秀の家臣たちを数点描いていますが、その紹介は別の記事にて。
浮世絵に描かれた明智光秀、いかがでしたでしょうか。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀を演じる長谷川博己さんのイメージとはだいぶ異なっていますね。
現在、太田記念美術館で開催中の「江戸の敗者たち」展にて、1,2、4番目に紹介した作品を展示しております。ぜひ、実際に美術館で作品もご覧ください。
こちらの記事もご覧ください。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)