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北斎の波の絵はどこから富士山を眺めているの?という話

葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。荒々しい波の描写が印象的な作品ですが、具体的にはどの場所から富士山を眺めているのでしょうか?

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題名に「神奈川沖」とありますし、これだけ波が荒いとなると、現在の神奈川県の沖、すなわち県南部に面した相模湾と考える方もいらっしゃることでしょう。しかし、この「神奈川」とは神奈川県ではなく、東海道の3番目の宿場町であった神奈川宿のことを指しています。現在の神奈川県横浜市神奈川区にあたります。

神奈川宿の様子は、歌川広重が「東海道五拾三次之内 神奈川 台の景」で描いています。右側の坂道には茶屋が立ち並んでいますが、左側には海が広がっています。現在は埋め立てがかなり進んでしまい、その面影はまったくありませんが、海にほど近い風光明媚な場所だったのです。

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この広重の絵には、いくつもの船が浮かんでいます。神奈川宿のすぐ近くにあったのが神奈川湊でした。18世紀後半以降、諸国の廻船が出入りする海上流通の拠点となり、大きく発展をしていました(『海からの江戸時代ー神奈川湊と海の道ー』(展覧会図録)、横浜市歴史博物館、1997年)。

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北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」は、この神奈川湊の沖から眺めた富士山を描いているのです。ちなみに、ちょうど真西の方角に富士山があります。

さらにもう少し考察してみましょう。「神奈川沖浪裏」には3艘の船が描かれていますが、これらは押送船(おしおくりぶね)と呼ばれる船です。江戸内湾の漁村で獲れた鮮魚を、江戸市中に毎日運送していました。

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新鮮な魚を一分一秒でも早く江戸市中へ届ける必要があるため、押送船はどんなに大波の中でも最大速度で航行しなくてはなりません。これほどの大しけであれば、普通の船は出航しませんが、押送船の船乗りたちはこのような天候でも必死に櫓を漕いだのです。浦賀から日本橋まで、風次第では5時間という早さで着いたそうです(岩井謙治『ものと人間の文化史76-Ⅱ 和船Ⅱ』法政大学出版局、1995年)。

「神奈川沖浪裏」では、富士山は遠くに見えても、陸地の影はまったくありません。そうすると、神奈川湊から出航した押送船ではなく、南に位置する浦賀あたりから出た押送船が、真っ直ぐ江戸の町へと北上しているところと推測されます。神奈川湊からかなり沖に出た江戸湾の中なのでしょう。大雑把な推測ですが、下の地図の赤いマーク付近が「神奈川沖浪裏」の舞台ではないでしょうか。

北斎は文化3年(1806)、47歳の時に現在の千葉県木更津市まで旅行しています。「冨嶽三十六景」を手掛ける約25年前のことです。木更津から江戸に戻る際、陸路ではなく、船に乗った可能性が指摘されています(永田生慈「北斎旅行考」『財団法人北斎館 北斎研究所 研究紀要』第2集、2009年)。北斎はその頃、「賀奈川沖本杢之図」という「神奈川沖浪裏」のプロトタイプとなるような作品を描いています。

また、同じ「冨嶽三十六景」では「上総ノ海路」のような海から見た富士山を描きました。「神奈川沖浪裏」も、実際に船に乗って旅した経験が活かされているのかも知れません。

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ただし、「神奈川沖浪裏」には1点疑問があります。先ほど3艘の押送船、わざわざ荒波を進んでいるので、江戸の町に向かっているようですが、富士山を背景に右から左に向かっているので、江戸の町のある北の方角を目指しているのではなく、南に進んでいることになります。この押送船、江戸の町から帰るところでしょうか。そうすると、鮮魚を積んでいないはずなので、こんな荒海を無理に航行する必要はないのですが…。あるいはたまたま嵐に遭遇したのでしょうか。

ちなみに、歌川広重は北斎の「神奈川沖浪裏」に対抗するかのような作品を描いてます。「不二三十六景 神名川海上」という、神奈川沖から見た富士山です。画面手前に船の帆を大きくクローズアップしていますが、富士山の下の方に見える民家が立ち並ぶ入江が神奈川湊でしょう。

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北斎の「神奈川沖浪裏」と比べると、陸地がはっきり見えるほど近い沖から神奈川湊を眺めています。広重は実際に目にしていかのように風景を描くことを旨としていましたので、北斎よりも現実的な風景になったのでしょう。

以上、北斎の「神奈川沖浪裏」がどこから眺めた風景なのかを考察してみました。

ただ、注意しなければならないのは、北斎は必ずしも実際の景色をそのまま描こうとしていた訳ではないということです。「神奈川沖浪裏」にしても、北斎にとって大事なことは、波の動きの激しさと、それに対抗する富士山の存在感をどう表現するかにあったはずです。先ほど押送船の進む方向に触れましたが、あくまで波の激しさを表現するために描いたものであり、どっちに進んでいるかという細かいことを、北斎は気にしていなかった可能性が十分にあります。そもそも江戸湾内であそこまでの大波が発生すること自体、かなり非現実的な風景です。

北斎がもしこの記事を読んだとしたら、「どこから眺めた富士山か真面目に考察するなんて野暮だね。広重の絵と一緒にするんじゃないよ。自分の絵はそんなちっぽけな現実にこだわってないんだ」と、叱り飛ばされるかもしれません。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)


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