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歌川広重は感染症で亡くなったの?という話

歌川広重が亡くなったのは、安政5年(1858)9月6日。数え62歳のことでした。安政5年は、感染症であるコレラが江戸の町で猛威をふるった年です。コレラの流行は長崎から始まり、7月には江戸の町に伝わって、8月に大流行しました。斎藤月岑の『武江年表』によれば、2万8000人余りの命が奪われたと伝えられています。

仮名垣魯文が執筆した『安政午秋  頃痢流行記』では、コレラで亡くなった有名人の名前が列挙されていますが、その中に「画工 立斎広重」として、広重の名前が挙げられています。ちなみに江戸琳派の絵師である鈴木其一の名前も見えます。(下のリンク先は、早稲田大学図書館所蔵本)

また、「蓮台高名大一座」という、誰が描いたのかは分かりませんが、大判2枚続の錦絵があります。大勢の人々が清元の舞台を楽しんでいますが、ここにいるのはいずれも安政5年(1858)に没した人たちとされています。

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中央の下の方で横顔を見せているのが、歌川広重。着物に「広重」の文字が記されています。

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このような書籍や錦絵を見ていた当時の人々が、広重はコレラが原因で亡くなったのだろうと考えていたとしても不思議ではありません。

しかしながら、内田実氏は『広重』(岩波書店、昭和5年(1930))において、広重はコレラにかかっていなかった可能性を指摘しています。その理由の一つが、広重の遺言状です。広重は亡くなる4日前の9月2日、そして亡くなる3日前の9月3日に遺言状を書いています。

広重の遺言状は、現在、東京都江戸東京博物館に所蔵されています。形見分けや葬式についての遺言が記されていますが、詳細はここでは省略しますので、詳しくは鈴木重三『広重』(日本経済新聞社、昭和45年)をご参照ください。

『武江年表』によれば、コレラにかかると「即時にやみて即時に終れり」「大かたは即時に嘔気を催し、吐瀉して後続けて瀉痢をなし、手足厥冷し蹇痿痺れて企踵(たちどころ)に絶命す。」とあるように、発症するとすぐにコロリと亡くなってしまうとされています。内田氏は、広重がコレラにかかっていたとするならば、亡くなる4日も前にしっかりとした遺言状を書いているのは疑わしいと指摘しているのです。

また、内田氏は、広重の門人であった三代広重が「床に就く十日ばかり前からブラブラしてゐた。熱病ではあったけれども、吐瀉も下痢もなかったから、実際はコロリでなく、他の病気であったかも知れぬ」と語っていたことも伝え聞いています。

以上のことから、広重はコレラが大流行していた時期に亡くなったのは確かですが、その死因はコレラではなかった可能性が考えられます。

下の浮世絵は、広重が亡くなったその月に刊行された、広重の死絵(しにえ)、すなわち、追善の目的で刊行された肖像画です。絵師は歌川派のリーダーであり、当時随一の人気を誇っていた歌川国貞(三代豊国)。広重と親しくしていたようで、落款に「思ひきや落涙なから」と添えているように、その死を深く悲しんでいます。

1467歌川国貞1

画面の上に、広重の生涯を紹介する文章が記されていますが、その中に「此菊月の六日家の跡しき納り方迄書残し辞世までよみおかれ」とあるように、亡くなる時には、家の家督や財産の扱いなどを遺言し、辞世の句まで詠みました。広重はしっかりと身の回りを整理して亡くなった様子がうかがえます。突然命を失ってしまうコレラにかかったとは思えない可能性が、この浮世絵からも考えられるのです。

ちなみに、広重の辞世の句は、「東路へ筆を残して旅の空 西の御国の名所を見む」。名所絵を得意とした広重。亡くなった後も、西方にある極楽浄土の名所をめぐり、絵に描こうとしていたようです。

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文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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