江戸っ子たちに人気の日本酒を探してみた
東海道や中山道など、五街道の起点となる日本橋。北側に魚市場があったこともあって、日本橋を描いた浮世絵を見てみると、江戸時代の食文化に関するさまざまな情報を発見できます。
こちらは溪斎英泉の「江戸八景 日本橋の晴嵐」。大勢の人々で密になっている日本橋のにぎわいが描かれています。
マグロやカツオなどの鮮魚を運ぶ人。
大根を運ぶ人もいます。
なにか食べ物らしきものを売っている人も。
そんな中、酒の入った菰樽を積んでいる大八車を、懸命に運んでいる男たちがいます。
こちらの菰樽に描かれているマークにご注目ください。
日本酒好きの方ならすぐにお察しのとおり、「剣菱」のロゴマークです。「剣菱」は、現在、兵庫県神戸市東灘区にある蔵元・剣菱酒造が製造している日本酒。このロゴマークはいまでも使われています。
他にも日本橋の浮世絵を見ていると、剣菱のロゴマークが入った菰樽を見かけます。たとえば、歌川広重の「新撰江戸名所 日本橋雪晴ノ図」。
男性2人が大きな菰樽を担いでいます。
同じく歌川広重の「東海道 ― 五十三次 日本橋」。
こちらも二人がかりで運搬しています。
日本橋を描いた浮世絵版画を調べた中で、剣菱以外のロゴマークの入った菰樽は見つかりませんでした(筆者が調べた限りですので、他にあるかもしれませんが…)。いずれにしろ、江戸っ子たちの中で、剣菱の知名度が高かったことは間違いありません。
江戸の町で人気があったお酒は、関東で造られたものではなく、上方から運ばれてくる「下り酒」でした。中でも特に入荷が多かったのが、伊丹や灘のお酒です。
剣菱は、現在、兵庫県神戸市東灘区に蔵元がありますが、江戸時代の頃は、伊丹で生産されていました。英泉や広重の浮世絵が描かれた19世紀前半、伊丹より灘のお酒の方が入荷量がだんぜん多かったといいます。それでも英泉や広重の浮世絵に剣菱が描かれているということは、それだけ、江戸っ子たちの知名度が高かったからでしょう。
さて、灘や伊丹から樽廻船で運ばれた日本酒は、江戸の新川沿いにある蔵(現在の東京都中央区新川)に積み込まれ、そこから江戸市中へと販売されていきました。
『江戸名所図会』巻之一より「新川酒問屋」(国立国会図書館蔵)
日本橋の浮世絵の中に剣菱の菰樽がしばしば描かれたのも、魚や野菜、そして日本酒といった、さまざまな食料品がこの場所に集まっていることを示す、いわば江戸の繁栄の象徴だったからと思われます。
ちなみに、浮世絵の中に描かれた菰樽には、他にも剣菱のロゴマークが入っていることがあります。例えば、喜多川歌麿「名取酒六家選 兵庫屋華妻 坂上の剣菱」(メトロポリタン美術館蔵)。花魁と日本酒の組み合わせです。
他のお酒のロゴマークの入った菰樽もあります。ぜひ、浮世絵を観賞する時、気をつけて見てみてください。
なお、剣菱の詳しい歴史については、こちらの剣菱酒造のサイトにある「剣菱の歩み」で紹介されています。ぜひご参照ください。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)