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【オンライン展覧会】「月岡芳年―血と妖艶」第1章 血

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 太田記念美術館にて、2020年8月1日~10月4日に開催された「月岡芳年―血と妖艶」展のアーカイブです。展覧会は「血」「妖艶」「闇」の3章構成となっており、さらに前期と後期で全点展示替えをしておりましたが、このオンライン展覧会では、第1章「血」で展示した全46点の画像、ならびに全ての作品解説を掲載しています。
 note上では、画像をクリックすると、より大きなサイズでご覧いただけますので、美術館で実物をご覧いただくような感じでお楽しみいただけます。
オンライン展覧会の入館料は600円です。無料公開の下にある「記事を購入する」をクリックしてご購入ください。一度記事をご購入されると無期限でご覧いただけます。
 いつでも、どこでも、お好きな時に「月岡芳年ー血と妖艶」展をご鑑賞ください。

※このオンライン展覧会には血を伴う残酷な表現が含まれます。苦手な方は閲覧・購入には十分にご注意ください。

はじめに

 月岡芳年は、武者絵や歴史画というジャンルを生涯にわたって手掛けました。武者絵や歴史画は、芳年以前の浮世絵師たち、例えば芳年の師匠である歌川国芳も頻繁に描いており、決して珍しいジャンルではありません。
 しかし、芳年の作品には、これまでの浮世絵と比べ、殺害する場面や血の飛び散る様子などが、より激しく描かれたものがあります。それは芳年の個性だけに起因するのではなく、そのような残酷な表現を求めた時代の風潮と大きく関わっているのでしょう。このような血を描いた浮世絵は、後世になって、「血みどろ絵」や「無惨絵」、「残酷絵」と呼称され、江戸川乱歩や三島由紀夫など、大正・昭和に活躍した文学者たちを惹きつけました。
 幕末に手掛けた血みどろ絵の代表作「英名二十八衆句」全14点をはじめ、「東錦浮世稿談」や「魁題百撰相」、「新撰東錦絵」など、血が描写された作品を紹介します。

№1「十三代目市村羽左衛門の弁天小僧菊之介」大判 文久2年(1862)3月 個人蔵

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文久2年(1862)3月に市村座で上演された、「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」を題材とする。桜の入れ墨を見せ、「知らざあ言ってきかせやしょう」の台詞と共に正体を明かすシーンや、稲瀬川の土手に5人の盗賊「白浪五人男」が勢揃いするシーンなど、弁天小僧菊之介には見どころが多いが、本図はその中でも最期の、極楽寺山門で立ち腹を切るシーンを描いている。鮮血を滴らせ、青白い顔色で口を歪める様子に、芳年は散り際の美を感じたのだろう。

№2「京都四条夜討之図」大判3枚続 元治元年(1864)3月

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本能寺の変を描く。登場人物は、画面右に「大多上総介平春永公」こと織田信長、中央に明智光秀の配下の「易田宅兵衛国朝」こと安田作兵衛国継、左に「保里蘭丸永保」こと森蘭丸成利が描かれる。江戸時代は戦国武将の名前をそのまま記すことができなかったため、若干の変更が行われている。障子越しに宅兵衛が突き刺した槍を、間一髪で捉えた春永。両者から緊迫した空気が漂う。血を流す武将らが倒れ、駆け寄る蘭丸の足にも大量の血が付着しており、戦局の激しさを物語る。

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№3「源平盛衰記堀川夜征」大判3枚続 元治元年(1864)8月

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文治元年(1185)、土佐坊昌俊が京都・堀川の義経の館に急襲をかけたが、返り討ちに遭い敗北を喫した「堀河夜討」の場面を描く。画面手前で激しい戦いを繰り広げるのは、義経家臣の鬼次郎幸胤と江田源蔵。血まみれの首や胴体が散乱する様子は目を背けたくなるほどの恐ろしさがあるが、阿根羽平太が真っ二つに切り落とされる様子は、弾けるような描写も相まって、恐ろしさよりも衝撃が勝る。

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№4「和漢百物語 華陽夫人」大判 慶応元年(1865)2月

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「和漢百物語」は、慶応元年(1865)に出版された、全26図が確認されるシリーズ。芳年の画業の初期にあたり、日本と中国の怪談や奇談を題材としている。金毛九尾の狐は、中国、日本、天竺で美女に化けて時の権力者に近づき、国を滅亡に導いてきた。天竺に渡った狐は華陽夫人という美女になり、斑足王の寵愛を受け、暴虐の限りを尽くした。王を利用し、千人もの首を刎ねさせたという。本図は、華陽夫人が生首を手に持ち、槍に刺さった2つの首を冷ややかに見つめる様子を描く。滴り落ちる血が、まさにいま斬り落とされたことを物語る。その残酷かつ美しい姿は、ビアズリーの『サロメ』を思い起こさせるだろう。

梵国(てんぢく)の半俗太非華陽を愛して艶香に反し既に国政をみだして閻浮台を寧魔麼す豈與令にいりて菩戒をさまたぐるものから国民大に患て竟に大乱をこそ引いだしたり  菊葉亭露光記

№5「勝頼於天目山逐討死図」大判3枚続 慶応元年(1865)5月 個人蔵

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かつて最強の騎馬隊を誇った武田氏だが、長篠の戦いに破れてからは弱体化し、遂に天正10年(1582)の天目山の戦いで終焉を迎えることとなった。敵の軍旗が迫りくる中、次々と自ら命を絶つ家臣たち。秋山源蔵や金丸平八郎が喉に短刀を突き刺し、血が吹き出す様子は非常に痛々しい。川の対岸には、既に介錯された遺体と、矢の刺さった遺体が転がる。勝頼も甲冑を置き諸肌を脱ぎ、後に続く覚悟の表情を浮かべている。

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