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明治の石造アーチ橋に秘められたストーリー

太田記念美術館では2020年10月10日~11月8日に「江戸の土木」展を開催。「土木」というキーワードで、江戸の成り立ちの様子を、浮世絵を通して眺めてみようという展覧会ですが、その見どころをご紹介します。

今回は、明治の石造アーチ橋にまつわるお話。

〈常盤橋〉唯一現存する明治の石造アーチ橋

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三代歌川広重「古今東京名所 常盤橋内 印刷局」(個人蔵)

これは三代歌川広重が描いた、明治時代の常盤橋の図。石造のアーチ橋で、明治10年(1877)に架けられました。

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こちらは常盤橋の現在の様子(撮影:筆者)。一般公開に向けて、修復が進められています。実は明治時代には、13もの石造アーチ橋が東京のさまざまな川に架けられたのですが、その中で唯一現存するのがこの常盤橋なのです。

※(追記)11/8付の東京新聞の記事で、常盤橋の修復が完成したと報道されていました。

明治維新の時代、新政府は江戸時代に架橋された和式の木橋を、新しい技術で次々に架けかえました。中でも石造アーチ橋は、頑丈であり、維持が容易であることから、小規模の河川の橋に次々と採用されたのでした。この石造アーチ橋を架橋するにあたり、大きな役割を果たした人物がいます。

それが、肥後(熊本)出身の石工であった橋本勘五郎(1822~1897)。なぜ、肥後出身の石工が、明治維新の東京の橋造りに関わったのでしょうか。勘五郎のルーツをたどると、一族三代にわたる波乱万丈なストーリーが見えてきます。

肥後石工の祖、藤原林七と〈眼鏡橋〉

話はここで、天明時代(1781~89)の長崎へとさかのぼります。この地に生まれた武士である藤原林七(1765~1837)は、橋本勘五郎の祖父にあたる人物。林七は長崎の出島にある眼鏡橋の構造に興味を持ち、出島のオランダ人と接触して石造アーチ橋の技術を学びます。

ちなみに眼鏡橋自体は、寛永11年(1634)、中国から来た僧である黙子如定によって架けられた橋だそうです。

しかし当時は、出島のオランダ人と無断で接触することはご法度。林七は長崎から逃げ、肥後種山村(現在の熊本県八代市)までたどり着きます。ここで林七がで出会ったのが、この辺りの石工であった宇七です。林七は宇七に石造アーチ橋の技術を伝えて種山石工を結成し、文化元年(1804)にこの地にはじめて石造アーチ橋を架橋しました。

岩永三五郎と種山石工の活躍

時代は下って天保時代(1830~44)。林七の盟友、宇七の次男であり、林七の娘婿でもある三五郎は、種山石工を率いて肥後国で石造アーチ橋を架け続け、その功績により肥後藩より岩永という姓を賜り、苗字帯刀を許されました。三五郎の架けた橋の中でも雄亀滝橋は、のちに造られた通潤橋のモデルとなったことでも知られています。

さらに三五郎ら種山石工は、その名声により天保11年(1840)に薩摩藩からお呼びがかかり、甲突川に玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋という5つの石造アーチ橋、いわゆる甲突川五石橋を完成させます。中でも西田橋は、藩主が参勤交代にも利用する、由緒正しい橋でした。現在、五石橋のうち3つの橋が、石橋記念公園に移設されています。

暗殺の危機と薩摩からの帰還

薩摩の地でも大活躍を見せる種山石工たち。ここで、思いもよらぬ危機が三五郎たちの身に及びます。石造アーチ橋の造成技術の流出を恐れた薩摩藩が、三五郎たちを末送り(暗殺)するという噂がたったのです。三五郎は危機を回避するため、仲間を少しずつ肥後に送り返します。

三五郎自身は嘉永2年(1849)に肥後への帰還を許されますが、帰途の途中で刺客に捕らえられました。しかし、三五郎の態度に感じ入った刺客が、三五郎を逃したとも言われています。無事肥後に帰還した三五郎は、2年後の嘉永4年(1851)にその地で亡くなります。

岩永三五郎と肥後石工たちの薩摩での活躍については、今西祐行の児童文学「肥後の石工」でも扱われていますので、興味のある方はどうぞ。

丈八の活躍と通潤橋

三五郎がこの世を去ったころ、種山石工を支えていたのは、初代・藤原林七の孫の世代にあたる、卯助、宇市、丈八らでした。この丈八こそ、のちに橋本勘五郎となる人物です。

そして嘉永7年(1854)、種山石工の技術の粋を集めた水道橋である通潤橋が完成します。通潤橋架橋の中心を担ったのが、丈八でした。丈八は通潤橋架橋の功により、肥後藩より苗字帯刀を許され、橋本勘五郎と名乗ります。

橋本勘五郎と明治の石造アーチ橋

時はさらに下って、明治4年(1871)。肥後の地で石造アーチ橋を架け続け、名声を得た橋本勘五郎は、ついに新政府に招かれて宮内省土木寮勤めとなりました。そして東京で初めて架けた石造アーチ橋が、万世橋でした。

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三代歌川広重「古今東京名所 元筋違 万代橋」

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こちらが、橋本勘五郎が明治6年(1873)に架けた石造アーチ橋である、万世橋。今は「まんせいばし」と呼びますが、架橋当時は「よろずよばし」と呼ばれていたそうです。ちなみに、上の図の題名が「万代橋」となっているのはそのため。勘五郎はさらに明治7年に浅草橋を架け、郷里である肥後の国へ帰りました。※参考文献:紅林章央『橋を透して見た風景』都政新報社

しかし、勘五郎が帰郷したあとも、続々と東京に石造アーチ橋が架橋されていきました。では、誰がその橋を架けたのでしょうか?上記文献によると、常盤橋の架橋の記録に茨城県の石工の名が記載されていることから、勘五郎が関東の石工たちに、種山石工の技術を伝え、それが継承されていったと考えられているのです。

こちらは、明治8年に架けられた京橋。

江戸の土木リーフレット_ペー

三代歌川広重「東京名所京橋従煉化石之真図」

こちらは、明治10年に架けられた江戸橋の様子。

江戸の土木リーフレット_ペー

小林清親「東京江戸橋之真景」

長崎で藤原林七がオランダ人から教わった石造アーチ橋の技術。林七と宇七が結成した種山石工は肥後で、鹿児島で、時に身に危険が及ぶ中で、石造アーチを架け続けました。こうして命がけで伝えられた技術が、橋本勘五郎によって関東の石工たちに継承され、明治維新を迎えた新しい東京の町づくりを支えることになるのです。

文:渡邉 晃(太田記念美術館 上席学芸員)

美術館での「江戸の土木」展の展示は終了しましたが、現在でもオンライン展覧会アーカイブズとして、同じ作品、解説を有料(800円)でお楽しみいただけます。リンク先からご入場ください。

展覧会の見どころを、テーマごとに紹介しています。その他の記事はこちらから。

2020年10月16日のニコニコ美術館にて、江戸の土木展が生中継されました。後半にはアダチ版画研究所協力により、後半には浮世絵の摺の実演もあります。ぜひご視聴ください。


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