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【オンライン展覧会】「江戸の敗者たち」展

太田記念美術館にて、2021年4月15日~5月16日まで開催の「江戸の敗者たち」展のオンライン展覧会です。展示作品全61点の画像および作品解説を掲載しています。
note上では、画像をクリックすると、より大きなサイズでご覧いただけますので、美術館で実物をご覧いただくようにお楽しみいただけます。
オンライン展覧会の入館料は、実際の展覧会と同じ800円です。無料公開の下にある「記事を購入する」をクリックしてご購入ください。一度記事をご購入されると無期限でご覧いただけます。いつでも、どこでも、好きな時に「江戸の敗者たち」展をご鑑賞ください。

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展示作品リストはこちら

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/wp-content/uploads/2021/04/losers-list.pdf

はじめに

戦いや競争があると、そこに必ず生まれるのが勝者と敗者です。そして日本の歴史上の人物や物語の登場人物の中で、私たちの心を惹きつけて深い印象を残すのは、勝者よりむしろ敗者なのではないでしょうか。また日本人の古くからの価値観を表す言葉に「判官贔屓」があります。源平合戦で活躍しながら兄頼朝にうとまれ、滅ぼされた源義経が判官の職にあったことから、悲劇的な最期をとげた人物、すなわち敗者に同情して肩を持つ感情のことを言います。
江戸時代の歌舞伎や小説でも、平家一門や義経をはじめ、楠木正成、明智光秀のような戦いに負けて落ちぶれていく者たちのはかなさや悲哀がたびたび描かれており、人々の深い共感を呼んだことがうかがえます。近年では歴史を敗者の立場から見直すことで、新たな視点を見出そうとする動きも盛んになっていますが、浮世絵を通して敗者たちに焦点を当ててみようというのが本展のテーマです。 
源義経の例を見れば明らかなように、勝者と敗者は常に紙一重の存在とも言えるでしょう。浮世絵に描かれたさまざまな人物の物語をたどりながら、勝つこととは、負けることとは何なのか、思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか。


Ⅰ 歴史の中の敗者たち

日本の歴史は数々の戦争や政争の歴史でもあり、争いのたびに生み出された勝者と敗者の歴史とも言えるでしょう。江戸時代の歌舞伎や小説は、古代から当時起きた事件まで幅広い時代を題材として扱っていますが、中でも治承・寿永の乱(源平合戦)や南北朝の動乱、戦国時代などは、人々の心に響くエピソードの宝庫として親しまれました。ここでは浮世絵に描かれた、日本の歴史に登場するさまざまな敗者たちをご紹介します。

菅原道真

(1)小林清親 菅公配所之図 大判錦絵3枚続 明治35年(1902)2月

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菅原道真(845~903)は平安時代の貴族・学者・政治家。宇多天皇に重用されたが、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)によって太宰府へと左遷されてその地で没した。図は海辺で月を眺めながら我が身を憂う道真の様子を描く。藤原時平は早世したが、当時から道真の怨霊によるものとの風説がたったという。道真は後に神格化され、天満天神として信仰された。画中の歌は道真のもので「よひの間や都の空にすみぬらん心つくしのあり明の月」。

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平将門

(2)楊洲周延 彫画共進会之内 総州猿島内裡図 明治17年(1884)12月10日 大判錦絵3枚続 

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平将門(?~940)は平安時代の豪族。下総・常陸国に広がった平氏一族の抗争の末、朝廷に反逆して関八州を支配する。新皇を名乗るも、平貞盛と藤原秀郷に討伐された。図は将門と協力関係を結ぼうとした藤原秀郷が猿島内裏に訪れたところ、白衣に乱髪という無作法な姿で現れた将門を見て、結託を諦めたという逸話を描く。反逆者でありながら、死後に信仰対象ともなった将門は、江戸時代には神田明神に祀られるなど崇敬されている。

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治承・寿永の乱

平家全盛のさなかに起きた以仁王と源頼政の挙兵から、壇ノ浦の戦いまでの時期(1180~85)を治承・寿永の乱と言い、源平合戦などとも呼ばれています。『平家物語』などで知られる平家の栄枯盛衰や、源義経の活躍と没落などのさまざまなエピソードがくりかえし浮世絵に描かれています。

(3)歌川広重 義経一代図会 発端 三子を伴て常盤御ぜん漂ろうす  大判錦絵 天保5~6(1834~35)頃

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常盤御前(1138~?)が今若、乙若、牛若の三人の子とともに、雪の中を歩む様子を描く。常盤御前の胸に抱かれるのが、のちに義経となる牛若である。平安時代末期、保元の乱(1156)で頭角を表した平清盛と源義朝であったが、続く平治の乱(1159)で義朝は清盛に敗れて殺害され、源氏の勢力は大きく衰退する。義朝の側室であった常磐御前も、大和国へと逃れることとなった。

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(4)歌川芳房 清盛布引滝遊覧義平霊難波討図 大判錦絵3枚続 安政3年(1856)2月 

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激しい雷光とともに描かれるのは、悪源太の俗称でも知られた源義平(1141~60)の怨霊。平治の乱で父の源義朝とともに平清盛に敗れ、敗走中に清盛の郎党である難波経房(図では常俊)に捉えられて斬首となった。図はその8年後にあたる平家全盛の頃、清盛らが布引の滝を遊覧した際に、義平の怨霊が現れて常俊を雷光で焼きつくしたという『平治物語』などで知られる場面を描く。

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(5)勝川春英 新板浮絵 石橋山合戦図 大々判錦絵 文化3年(1806)8月

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石橋山の戦いの様子を描いた作品。源義朝の三男である源頼朝(1147~99)は、平治の乱で義朝が敗れた際に捉えられたが、死罪は免れて14歳で伊豆へ島流しとなる。20年後の治承4年(1180)、以仁王による平家追討の令旨を受けて頼朝も挙兵。伊豆国目代である山木兼隆を討ち取るが、石橋山で平家方の大庭景親らと戦って敗北する。図では右の木のうろに隠れているのが頼朝と思われる。

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(6)歌川芳虎/重清/ 岐山 書画五拾三駅 伊勢 石薬師 逆桜 大判錦絵 明治5年(1872)10月

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冑姿の源義経(1159~89)とともに、背後には満開の桜が見える。義経は平治の乱の際に捉えられて鞍馬寺へ預けられたのち、奥州の藤原秀衡に保護されて成人する。治承4年(1180)の頼朝の挙兵に応じ、平家討伐に功績をあげた。東海道の宿場にちなむ風物を題材にしたシリーズの一点で、図は石薬師宿にあった義経逆桜という桜を題材とする。同地には異母兄の源範頼にちなむとされる桜もあり、のちに義経と混同されたと考えられている。


(7)月岡芳年 平清盛炎焼病之図 大判錦絵3枚続 明治16年(1883)8月

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熱病に侵されて苦しむ、晩年の平清盛(1118~81)を描く。平清盛は仁安2年(1167)に太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇の后とするなど栄華をきわめ、平氏全盛の世の中を作り出した。しかしその振る舞いは宮廷内で反感を買い、武士の支持をも失っていく。以仁王の挙兵を受けて蜂起した諸国の源氏によって平氏が劣勢となる中、清盛は病に倒れる。身を反り返して苦しむ清盛の背後に、閻魔大王や地獄の獄卒たちの姿が見えている。

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