小林清親が新選組の土方歳三と戊辰戦争で共に戦ったという話
以前のnoteの記事で、明治時代に活躍した浮世絵師・楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ)が、新選組の土方歳三と北海道で共に戊辰戦争を戦っていたことを紹介しました。
実は、もう一人、土方歳三と共に戊辰戦争を戦ったことがある浮世絵師がいます。小林清親です。
小林清親は、ご覧のような、光と影のうつろいを情感豊かに描いた「光線画」で知られています。単独の展覧会もしばしば開催されていますので、お好きな方も多いことでしょう。ただ、清親と土方歳三が結びつくイメージはほとんどないかと思います。
まずは、清親の経歴を確認しましょう。清親の父親である小林茂兵衛は、本所御蔵に勤める小揚頭頭取、すなわち、年貢米の陸揚げ作業を指揮する仕事をしていました。それほど身分は高くありませんでしたが、徳川家に仕える幕臣(御家人)だったのです。
清親は、文久2年(1862)、父親が亡くなると16歳で家督を継ぎ、正式に幕臣となります。慶応元年(1865)4月、14代将軍・徳川家茂の3度目の上洛の際には、御勘定下役として従い、東海道を通って大坂へと向かいました。ちなみにこちらは、その時の将軍上洛を題材とした「末広五十三次」という揃物のうち、二代国貞による「日本橋」(国立国会図書館蔵)です。
さて、慶応2年(1866)、家茂が大坂で没し、徳川慶喜が15代将軍となって以降も、清親はそのまま大坂に滞在し続けています。そして、慶応3年(1867)10月の大政奉還の後、慶応4年(1868)1月、22歳の時に鳥羽伏見の戦いが勃発しました。
こちらは清親の直筆による絵日記帳(黒崎信『清親画伝』(松木平吉、1927年)より転載)です。
「ふしみの戦」と記されているように、清親は、慶応4年1月3日、伏見市街地で行なわれた伏見の戦いに参加していたようです。新政府軍と旧幕府軍の大砲が互いに火を噴く激しい戦いとなり、煙が巻き上がる様子を清親は描いています。「砲兵頭 大島」「砲兵頭 大久保」「会津組」の書き込みがありますが、具体的にどのような状況だったのか、調査不足のためはっきりとは分かりません。ただし、これまで戦に関わることのなかった清親にとって、目の前で飛び交う砲撃や銃撃のすさまじさは恐ろしいものであったことでしょう。
この伏見の戦いにおいて、伏見奉行所を守っていたのが、土方歳三が指揮する(近藤勇は負傷のため不参加)新選組でした。清親が、新選組、あるいは土方歳三の名前を伝え聞いていた可能性はあるでしょうが、さすがに直接の面識はなかったことでしょう。しかしながら、清親も土方歳三も、徳川幕府の命運を決することとなった伏見の戦いという場に、共に参加していたのです。
さて、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍が敗走、清親は江戸の町へと戻ります。4月には江戸城が無血開城。新政府軍へ抵抗を続ける彰義隊が上野の寛永寺に立てこもり、5月15日、上野戦争が勃発しました。
清親は、上役からこの上野戦争の偵察を命じら、人足の格好をし、雁鍋という料理屋の用水桶に隠れて様子を伺います。その時の様子も、清親は絵日記に描いています(黒崎信『清親画伝』(松木平吉、1927年)より転載)。
黒崎信『清親画伝』(松木平吉、1927年)では、清親から聞いた話として、「鉄砲玉が飛んで来て山下の雁鍋といふ料理店の天水桶をひっくり返したにおどろき逃げ帰る途中、三味線堀の泥中を這ったと、君は編者に物語った。」と記されています。銃撃によって身を隠していた用水桶がひっくり返り、驚いて逃げたというのです。ちょっと臆病な感じがしてしまいますが、検証してみると、実はそうとも言えません。
まず「山下の雁鍋といふ料理店」について見てみましょう。歌川広重の「名所江戸百景 上野山した」にその店の様子が描かれています。
2階建ての建物で、1階が魚屋、2階が料理屋になっています。当時は「伊勢屋」という店名で、暖簾に記されているように「紫蘇飯」が名物でしたが、後に「雁鍋(がんなべ)」と名乗ります。屋根の棟には雁の意匠があります。
この「雁鍋」の位置を幕末の切絵図で確認してみましょう。赤い丸が「雁鍋」の場所です。上の錦絵にも描かれているように、建物の北側には五条天神宮がありました。現在の東京都台東区上野4丁目10番地付近にあたります。
上野戦争において、最も激しい戦いの場となったのが、黒門口、上の切絵図で黄緑色で囲ったところです。彰義隊も新政府軍も、ここを境に互いに銃撃や砲撃を撃ち合いました。その激しい戦いの様子は、かなりの誇張はあるでしょうが、後に歌川芳虎が描いた錦絵からも伝わってきます。
戦況が膠着する中、その均衡を破るきっかけの一つとなったのが、新政府軍が雁鍋の2階に上がり、そこから銃で彰義隊士を狙い撃ちにしたことでした。これにより、彰義隊士らは次々と倒れ、総崩れになります。
上の地図からも分かるように、雁鍋はそれだけ上野戦争の激戦地に近い場所にあったのです。先ほど、清親は雁鍋の用水桶の裏に隠れていてたと書きましたが、かなり危険な最前線まで行って偵察をしていたことになります。銃も持たない清親が恐れをなしたというのは、無理もなかったことではないでしょうか。
なお、土方歳三は上野戦争の際には江戸を離れ、宇都宮で戦闘を繰り広げていました。清親と土方歳三の接点は、伏見の戦いのわずか1~2日だけということになります。
参考文献:黒崎信『清親画伝』松木平吉、1927年。
近藤市太郎『清親と安治』アトリヱ社、1944年。
吉田漱『開化期の絵師 小林清親』緑園書房、1964年。
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文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)
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