太田記念美術館の謎のアイコン「虎子石」①これって何?生き物?
太田記念美術館の公式twitterアカウントや、noteアカウントに使われている謎のアイコン。
これは何なの?石?生き物?と思われる方が多いので、改めて紹介したいと思います。
実はこのアイコンは、歌川芳員「東海道五十三次内 大磯」(※現在展示しておりません)という作品に描かれた、謎のキャラクターを切り抜いたもの。大きな石に虎の手足と尻尾、目や口と思われるものもついており、おそらく生き物なのでしょう。
名前は「虎子石」とあります。
突然現れた虎子石に、周囲の人々がびっくりしていますが、虎子石は涼やかな表情。特に危害はなさそうです。右側の女性は少し笑っていますね。
で、そもそもこの虎子石っていったい何なの?という話。実はそのルーツとなるのは、「曽我物語」に出てくる遊女、大磯の虎が大事にしていたという、不思議な石の名前。虎御石、虎が石、虎子石など、いくつかの呼び方があり、大磯の延台寺には、今も「虎御石」がまつられているということです。(ここでは以下、虎子石で統一)
http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/taiken_asobu/powerspot/endaiji.html
延台寺の伝承によると、虎子石は山下長者が虎池弁財天に子宝を祈願して授かった石と言われ、生まれた女子「虎」とともに大きくなっていったそうです。
歌川国貞(三代豊国)・広重「双筆五十三次 大磯」(※現在展示しておりません)。
やがて虎は曽我兄弟の兄にあたる、曽我十郎の恋人となります。左が曽我十郎、右が大磯の虎。虎子石は不思議な力を持った石で、十郎の仇である工藤祐経が刺客を差し向けた際、十郎の姿に成りかわって敵の矢を防ぎ、十郎の命を守ったそうです。
楊洲周延「東絵昼夜競 大磯の虎」(※現在展示しておりません)。
絵の上の方にコマがあり、曽我五郎と十郎の兄弟による敵討ちの場面を描いています。曽我兄弟は長年の仇である工藤祐経を討ちますが、十郎は仁田四郎に討たれてしまいます。下の絵は十郎の死を知って泣き崩れる大磯の虎。
歌川国貞「東海道五十三次之内 大磯」(※現在展示しておりません)。
曽我兄弟が工藤祐経を討った旧暦5月28日に降る雨を「虎が雨」と言います。十郎の死を知って虎が流した涙が、雨となって降り注ぐという伝承によるもの。大磯の虎は、曽我十郎が亡くなったあと尼となり、虎子石を最後まで大切にしたということです。とても悲しい話ですね。
さて、虎子石は江戸時代、大磯の名物でもあったようで、浮世絵にも虎子石は描かれています。
図は北斎の描いた東海道の宿場町を題材としたシリーズの一枚で、大磯宿を描きます。石を男が持ち上げています。立て札に「とらが石」とありますね。
こちらも北斎の描いた東海道物のシリーズで、やはり大磯宿の図には、男が虎子石を持ち上げようとしている様子が描かれます。
実は芳員の「東海道五十三次内 大磯」も、東海道の宿場を描いたシリーズものの一枚で、大磯宿を題材にしています。
本来なら、東海道の大磯宿を描く際、大磯に関連したモチーフとして、上の歌川国貞「東海道五十三次之内 大磯」のように大磯の虎を描いたり、北斎のように虎子石を(ただの石として)描くのが自然なはずですが。。
なぜ、歌川芳員は大磯宿を描く際、虎子石という名前で、このような不思議なキャラクターを描いたのでしょうか?
実は、芳員が描いたこの東海道シリーズの、他の図を見ると少し答えがわかります。こちらは、「神奈川」を描いた図(個人蔵)。侍に化けて人間をだます、ユーモラスなキツネが描かれています。このシリーズは、ユーモラスなキャラクターを各図に登場する、ちょっと変わり種の東海道シリーズだったのです。
こうしたシリーズのしばりの中で、芳員は大磯宿に普通描かれる、定番のモチーフをそのまま描くことはせず、少しひねりを加えて、何か面白いキャラクターを考えようとしたのかも知れません。
そして生まれたのがこの「虎子石」。とはいえ「虎」と「石」という言葉のみから連想して、図のようなオリジナルキャラクターを生み出してしまうセンスには驚かされますね。芳員って天才??(②につづく)
渡邉 晃(太田記念美術館 虎子石係)
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太田記念美術館監修により、フェリシモミュージアム部さんから虎子石のぬいぐるみ化(ポーチ&クッション)もついに実現。詳しくはフェリシモミュージアム部さんの下記ページから。
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