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北斎と馬琴が制作をめぐって喧嘩したという話

浮世絵師・葛飾北斎と戯作者・曲亭馬琴。最強のタッグと言ってもよい2人は、『椿説弓張月』や『新編水滸画伝』など、13作(前編・後編などは1作とみなす)の読本よみほんを制作し、ヒットを重ねました。

北斎と馬琴の関係については、これまでも紹介してきました。

北斎と馬琴。才能ある2人だからこそ、時には制作をめぐって衝突することもあったようで、さまざまな逸話が伝わっています。今回は、そんな2人が喧嘩をして仲違いをしたというエピソードを紹介しましょう。

文化9年(1812)に刊行された『占夢南柯後記ゆめあわせなんかこうき』という読本。巻之一の口絵では登場するキャラクターたちが並んでいるのですが、その中の1人に、刀屋同樹という悪人の刀とぎがいます。

下のリンク先に画像があります。早稲田大学図書館の所蔵です。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_01280/he13_01280_0008/he13_01280_0008_p0008.jpg

右頁、両手を後ろに回し、裾をまくって股を大きく開いた髪の無い男性が、刀屋同樹です。口はへの字に結び、何もくわえていません。

この挿絵を描くにあたり、馬琴は刀屋同樹を草履をくわえた姿で描くように北斎に指示しました。しかし、北斎は笑いながら、誰がこんな汚い草履を口にするものか、もしそうだと言うなら、まず自分が口にしてみろと反論します。これを聞いた馬琴は大いに怒り、北斎と馬琴が絶交する原因になったというのです。

この逸話は、明治26年(1893)に刊行された飯島虚心の『葛飾北斎伝』に記されています。

一説に、後記巻一、六丁裏、刀屋同樹か、立廻りの所に於きて、馬琴同樹をして、口に草履を含み、裳を褰ぐるのさまを画かんを請ふ、北斎笑て曰く、此の汚穢物、誰かこれを口にすへき、若し然らすとせハ、君先つこれを口にせよ、馬琴大に怒る、これ二人か交りを絶ちし原因なりと、

江戸時代の文献にはこの逸話は伝えられていないので、その真偽ははっきりしませんでした。しかし、馬琴自身による『占夢南柯後記』の稿本(ラフスケッチ)の出現により(鈴木瑞枝「滝沢馬琴と『占夢南柯後記』」『化政・天保の人と書物』玉壺堂、1984年)、まったく根拠のない話ではないことが明らかとなりました。

『占夢南柯後記』の稿本は、板坂則子氏の『曲亭馬琴の世界 戯作とその周辺』(笠間書院、2010年)に収録された「『占夢南柯後記』稿本に見る画師北斎と作者馬琴」に、馬琴直筆の挿絵が、北斎の完成作(版本)と並んで掲載されています。

稿本を見ますと(図版を掲載できずにすみません)、確かに、草履をくわえた刀屋同樹が馬琴の拙い筆で描かれています。馬琴の最初の構想では、刀屋同樹に草履をくわえさせようとしていたことは間違いないようです。

板坂氏は、稿本の他の場面で、同樹が草履を手にしているが、北斎が描いた完成作では草履がなくなっていることから、馬琴が考えた同樹と草履の組み合わせに北斎は反発していた可能性を指摘しています。北斎と馬琴の間で意見の食い違いがあった可能性は高そうです。

なお、北斎と馬琴の喧嘩といえば、『三七全伝南柯夢さんしちぜんでんなんかのゆめ』のエピソードも伝わっています。三勝と半七が心中に赴く場面に、北斎が野狐を描き添えたところ、馬琴はすぐ修正するように命じます。しかし北斎は、自分の絵で文章を補ってやっているのに、修正しろというのであれば、これまで描いた挿絵を返せ、二度と馬琴のためには絵を描かないと怒りをあらわにします。版元が間に入ることで、なんとか喧嘩は収まりました。先と同じく、飯島虚心の『葛飾北斎伝』で紹介されている逸話です。

この南柯夢の末段三勝半七か、情死に赴く所に於きて、北斎野狐の食をあさる体を画きて、寒夜の景物とす、馬琴この板下をみて曰く、此の如く蛇足を添ふるが為に、情死の男女は、恰野狐に誑惑さるゝものゝことし、速に削除すへしとて、板下をかへしけれハ、北斎大に憤り、彼ハ余が挿画によりて、著作の意を補ふを知らさるなり、強て削り去らんとならハ、前回より画きし挿画を返還せよ、余は自今馬琴か著作の挿画にハ、筆を下さすといふ、版元甚迷惑し、百方奔走して、漸く和解を結ひたりと、

下のリンク先が、早稲田大学図書館が所蔵する画像です。画面の右上に小さく7匹の狐たちのシルエットが描かれています。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00600/i04_00600_0217/i04_00600_0217_p0028.jpg

北斎と馬琴らしいエピソードに聞こえますが、鈴木重三氏は、この逸話の典拠ははっきりしておらず、事実無根であると主張されています(「馬琴読本の挿絵と画家―北斎との関係など」『絵本と浮世絵』美術出版社、1979年)。その根拠となるのが、『三七全伝南柯夢』の校合本の存在です。完成前の校合本には馬琴による細かい訂正が記載されているのですが、問題となった狐の絵には何も注文をつけていません。そのため、馬琴は北斎に狐を削除するように言っていないというのです。

『葛飾北斎伝』は北斎研究で最も重要な資料ではありますが、伝聞に基づく記事も多く、書いていることが確実に史実であるとは限りません。特に根拠が不確かな逸話については、注意が必要と言えるでしょう。

さて、冒頭で紹介した草履をめぐっての喧嘩に話を戻しますと、これをきっかけに、北斎と馬琴は絶交したとあります。しかし、『占夢南柯後記ゆめあわせなんかこうき』を刊行した後も、『青砥藤綱模稜案』や『皿皿郷談』といった読本を共に制作しているので、絶交したというのは眉唾と言えるでしょう。この逸話を紹介した『葛飾北斎伝』の中でも、北斎と馬琴が絶交するはずはないとの意見が述べられています。

しかしながら、北斎・馬琴のコンビは文化12年(1815)で終わりを迎え、その後の馬琴の読本は別の絵師が担当するようになりました。北斎と馬琴の絶交説がささやかれたのは、この突然のコンビ解消が喧嘩別れによるものではないかという憶測が広がったからでしょう。

ただ、ある時を境に北斎が馬琴の読本に挿絵を描かなくなったことも事実です。その理由として、鈴木重三氏は、先の論文で、①北斎の気持ちが読本から絵手本に移った、②2人の報酬が高いため版元が敬遠した、③北斎の天邪鬼な性格を馬琴がわずらわしく感じるようになったという3つの可能性を指摘しています。

私としては、一つのジャンルにとどまることを嫌った北斎の性格を考えると、馬琴との仕事は十分にやりきったと満足し、新しいステップを踏み出そうとしたのではと考えています。はたして2人の関係はその後どうなったのでしょうか。後日、別の記事で紹介したいと思います。

最後に宣伝ですが、北斎の代表作、ならびに北斎と同時代に活躍した絵師たちの作品を比較した「北斎とライバルたち」展。8点ほどですが、馬琴・北斎のタッグが生み出した『椿説弓張月』の挿絵を紹介しております。ご興味のある方、ぜひご覧ください。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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