北斎は「画狂老人卍」というやんちゃな画号をどのようにして思い付いたのかという話
葛飾北斎が生涯に何度も画号を変えたという話は有名ですが、たくさんある画号の中でも、特に異彩を放っているのが「画狂老人卍」ではないでしょうか。しかもこの画号、北斎が70代半ばというかなりの高齢になってから使い始めたものです。ちょっと中二病を思わせるようなやんちゃな画号。北斎はなぜこのような画号を用いるようになったのか、その経緯をご紹介しましょう。
北斎は、享和元年(1801)、数え42歳の頃から「画狂人」という画号を用い始めます。例えばこちらの「見立三番叟」という肉筆画。
「画狂人北斎画」とサインしています。
「画狂人」とは、絵を描くことに熱中する人という意味でしょう。北斎はこの画号を文化3年(1806)、47歳頃までの間に集中して使っています。
ただ、この時期に興味深いことがひとつ。文化2~3年(1805~06)という限られた短い期間ですが、「画狂老人」という画号も使っていたのです。
例えば、文化2年(1804)に小枝繁が執筆した『絵本東嫩錦』という読本。北斎は挿絵を描いているのですが、その奥付を見てみますと、「画狂老人北斎画」と名乗っています。(※下記リンクは、関西大学図書館中村幸彦文庫です。)
この時の北斎は46〜47歳。40歳を初老と言うとはいえ、なぜこの時期に老人と名乗ったのか、はっきりとした理由は分かりません。ただ確かなことは、「画狂老人卍」を名乗り始める30年近く前に「画狂老人」という画号を思い付いていたということです。
さて、それから20年弱ほど経ちまして、文政6年(1823)、北斎が64歳になった頃、北斎は川柳を詠むことにハマります。北斎は川柳を詠む会に頻繁に参加し、詠んだ川柳は『誹風柳多留』という句集に掲載されています。
例えば、文政9年(1826)刊行の『誹風柳多留』95編をご覧ください。(※下記リンクは早稲田大学図書館古典籍総合データベースです。)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he09/he09_01147/he09_01147_0049/he09_01147_0049_p0032.jpg
ここには「卍」という人の川柳が2句、掲載されていますが、この「卍」が北斎の表徳、すなわち川柳の号なのです。北斎は「卍」以外にも、「万字」「百姓(百性)」の号を使っていました。北斎の川柳熱は亡くなる直前まで続き、弘化3年(1846)、87歳までの間に詠んだ川柳は、225句も確認されるそうです(註1)
「卍」は、仏の胸や手足などにあらわれる徳の象徴です。北斎は日蓮宗を熱心に信仰していたということが関係していたのかも知れません。
しかも北斎が自分で名乗っていただけではなく、川柳の仲間たちから「卍さん」と呼ばれることがあったそうです。その卍さんと呼ばれている人が小田原提灯に絵を描いた時、卍さんの正体を知らなかった店員が、「お前さんはなかなか絵心があります」と誉めたという笑い話が伝わっています(註2)。「卍」は北斎が日常生活で仲間たちから呼ばれるニックネームでもあったわけです。
そしていよいよ、北斎が75歳になった天保5年(1834)、『富嶽百景』初編で「画狂老人卍」という画号を使用し始めます。「画狂老人卍」は30年近く前に使っていた「画狂老人」という画号と、「卍」という川柳のニックネームを1つに合体させたものでした。奇をてらうためにパッと思い付いたものではなく、かなり以前から用いていた愛着のある名前の組み合わせだったのです。
こちらは葛飾北斎の『富嶽百景』初編の袋。
「前北斎為一改 画狂老人卍筆」と記されています。北斎は『富嶽百景』の直前に制作していた「冨嶽三十六景」では「前北斎為一」と名乗ることがありましたので、そこからさらに改名したことを伝えています。
その後も北斎は「画狂老人卍」を頻繁に使いますが、ニックネームでもあった「卍」は特にお気に入りだったのでしょう。
例えば「百人一首うはかゑとき 源宗于朝臣」では「前北斎卍」と、北斎から卍に改名したことを伝える画号を名乗っています。
また、緑亭川柳が編纂した『烈女百人一首』では「葛飾卍老人」と名乗り、
嘉永2年(1849)、数え90歳で亡くなる年に描いた「雨中の虎」という肉筆画では「九十老人卍」と名乗りました。「前北斎卍」「葛飾卍老人」「九十老人卍」など、「卍」の画号にもいろいろバリエーションがあったのです。
「画狂老人卍」という画号は、現代の私たちからすると、ちょっとふざけた名前のように感じられるかも知れません。しかし北斎にしてみると、とても歴史がある大事な名前だったのです。
なお、太田記念美術館では、6月26日まで「北斎とライバルたち」展を開催しています。葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」とともに、歌川広重や歌川国芳、溪斎英泉など、ライバルたちの作品も併せて展示中です。北斎のことを一歩踏み込んで知ることができる展覧会ですので、是非お見逃しなく。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)
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