葛飾北斎が蔦屋重三郎のお店を紹介します
2025年のNHK大河ドラマの主人公となった蔦屋重三郎。蔦屋重三郎は何をした人かと言えば、その職業は「版元」。小説や浮世絵版画の企画を立案したり、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵師たちをプロデュースしたり、彫師や摺師を指揮して出版物を制作したりと、その業務はさまざまです。
しかし、版元の仕事はこれだけではありません。自らが出版した書籍や浮世絵も販売していました。販売は小売店となる本屋が行なっている現代と比べると、大きな違いです。
では、蔦屋重三郎のお店はどのような感じだったのでしょうか。実は、その店先の様子を葛飾北斎がレポートしています。
こちらは寛政11年(1799)、葛飾北斎が挿絵を描いた狂歌絵本『東遊』の1図より、「絵草紙店」です。
絵草紙とは黄表紙や合巻といった草双紙とも呼ばれる絵入りの小説のことで、広くは浮世絵版画も含みました。大衆向けの娯楽商品である絵草紙や浮世絵版画を販売する店を、絵草紙屋や地本問屋と呼んでいます。
まずは屋外に置かれている、行灯型の置き看板を見てみましょう。
富士山型に蔦の葉のマーク。見覚えがあるのではないでしょうか。これは蔦屋重三郎の版元印です。北斎の『東遊』は蔦屋重三郎の刊行なのですが、まさしく自分の店の様子を北斎に描かせているのです。
その下の文字を読んでみましょう。看板の右側の文字は「通油町 紅絵問屋 蔦屋重三郎」。左側はくずし字で読みづらいですが、同じように「あふら町 紅屋問屋 つたや重三郎」と書いてあります。
まず、通油町とは現在の東京都中央区日本橋大伝馬町のこと。蔦屋重三郎のお店があった住所ですね。日本橋から北東の方角に800mほど。東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅のすぐ南です。(蔦屋重三郎がなぜこの場所に店舗を構えたのか、その経緯はまた別の記事で)
そして、「紅絵問屋」とありますが、浮世絵に詳しい人ほど不思議に思われるかも知れません。というのも「紅絵」というのは、浮世絵版画が多色摺の錦絵となる以前、モノクロの墨摺絵に主に植物性の紅の絵具を筆で塗って仕上げた版画だからです。享保年間(1716~36)に主に制作されており、北斎の絵が刊行された寛政11年(1799)には、全く制作されていなかった、50年以上昔の品物ということになります。
実は、この「紅絵」という言葉、当時は定義が曖昧だったようで、紅摺絵(3~4色程度の多色摺木版画)や錦絵(多色摺木版画)のことも紅絵と呼んでいる人がいました。そのため、この「紅絵問屋」というのも、古い紅絵を販売している店ではなく、錦絵を販売する店という意味合いで使われているようです。
次は店先に掛かっている暖簾を見てみましょう。
「耕書堂」とあるのは、蔦屋重三郎の屋号。北斎の「冨嶽三十六景」を制作した版元・西村屋与八は永寿堂、広重の「東海道五拾三次之内」を制作した竹内孫八は保永堂といったように、版元には主人の名前の他に、〇〇堂といった屋号がありました。
ようやく店内を覗いてみましょう。
棚の上段と中段に浮世絵版画が平積みされています。おそらく中段右端は斧を振り上げた金太郎でしょうか。他は何の絵かよく分かりません。現代の本屋さんが本を販売するように、平積みで売られていますが、風が吹いたら飛んでいかないか心配です。棚の下段に高く積まれているのは書籍のようです。
刀を差した武士が、荷物持ちのお付きの男性を待たせて、どの浮世絵を買おうか吟味しています。
次は、店内の右側に目をむけてみましょう。
手前にいる男性、何か刃のついたものを手にしています。おそらく、積み重ねられた紙を裁断し、本の小口を切り揃えようとしているのでしょう。後ろにいる男性たちも紙の束を手にしており、製本作業をしている最中のようです。本当にこのように店先で製本作業をしていたかどうかは疑問ですが、版元が書籍の制作と販売をしていたことを示していると言えるでしょう。
それでは最後に画面の右端を見てみましょう。
店の入り口にぶら下げられている板は、書籍を紹介する看板です。左から「狂歌千歳集 高点の歌を集」、「東都名所一覧 狂歌入彩色摺」「忠臣大星水滸伝 山東京伝作」「浜のきさこ よみかた小冊」。
『狂歌千歳集』は未見ですが、寛政12年(1800)刊の葛飾北斎『東都名所一覧』、寛政11年(1799)刊の山東京伝作・北尾重政画『忠臣水滸伝』前編、天明3年(1783)刊・寛政12年(1780)再版の元木阿弥編『狂歌浜のきさご』と、いずれも蔦屋重三郎が刊行した書籍です。新刊、あるいはこれから出版予定の本を宣伝しているのです。現代の本屋さんで新刊のポスターを貼るのと変わりませんね。
この『東都名所一覧』というのは、葛飾北斎の狂歌絵本の代表作の一つ。下の画像が『東都名所一覧』です。北斎らしい女性の描き方が確立された時期の作品ですが、この絵本の紹介はまた別の機会に。
以上、葛飾北斎が描いた蔦屋重三郎の店先を紹介してきました。ここまで読んだ皆さまの中で、「あれ?この人は蔦屋重三郎?」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
画面左端、髪の毛のない男性が、主人のような雰囲気で店の奥に座っています。
しかし、残念ながら、この絵が描かれたのは寛政11年(1799)。蔦屋重三郎は寛政9年(1797)5月6日で亡くなっていますので、蔦屋重三郎という訳ではなさそうです。それでは、蔦屋重三郎はどのような風貌だったのか。それはまた別の記事でご紹介しましょう。
ちなみに、『東遊』の「絵草紙屋」には色が摺られているヴァージョンもあります。
これは狂歌集であった『東遊』の挿絵が好評だったため、挿絵だけを抜き出し、多色摺の名所絵本として享和2年(1802)刊行した『画本東都遊』という改題後摺本です。モノクロの『東遊』の方がオリジナルですのでご注意を。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)