葛飾北斎の「冨嶽三十六景」は「三十六景」ではなくて「四十六景」という話
葛飾北斎の代表作である「冨嶽三十六景」。題名が「三十六景」となっていますので、全部で36点からなるシリーズと思われがちなのですが、実は36点ではなく、46点が確認されています。
なぜ、36点ではなく、10点も多いのでしょうか?
その理由は非常にシンプルで、「冨嶽三十六景」の売れ行きが好調だったため、追加で出版されることになったのです。こちらが追加された10点。浮世絵好きの間では「裏富士」と通称されています。
このように、浮世絵の題名が制作された枚数と合致しないことは、ときどき起きています。例えば、歌川広重の「名所江戸百景」は、「百景」という題名ですが、100点を大幅に超えて119点(うち1点は門人の二代広重作)刊行されました。
一方、葛飾北斎の「百人一首うはか絵説」のように、「百人一首」になぞらえて100点の制作を目指していましたが、27点しか刊行されませんでした。もともとの予定の数に届かないというケースもあるのです。
ただ、「冨嶽三十六景」で興味深いのは、単に作品の販売が好評だったというだけでなく、北斎自身にたくさんの富士山の絵を描きたいという強いモチベーションがあったということです。
天保2年(1831)に刊行された合巻、『正本製』十二編の巻末には「冨嶽三十六景」の広告が掲載されているのですが、以下のような説明書きが添えられています。
「このように次々と制作すれば、百を超えることだろう。(題名のように)36点に限定するものではない」とあります。この広告が出た時点ではまだ刊行の途中、すなわち36点が出揃っていなかった時期と推定されます。それにも関わらず、36点を超えるんだという強い意気込みが感じられるのです。この文章は、北斎ではなく、版元が執筆したと思われますが、北斎自身にそれだけの熱意があったからこそ、このような書き方になったのでしょう。そもそも広告文にこのような意気込みが記されること自体、珍しいことです。
実際、「冨嶽三十六景」の刊行が終わった後も、富士山を描きたいという北斎のモチベーションは収まらず、『富嶽百景』という絵本を刊行することになるのです。
ちなみに、「冨士三十六景」がどのような順番で刊行されたかについてですが、絵の中に制作の順番は記載されておらず、はっきりと断定することはできません。ただし、冒頭でも紹介しましたように、最後に追加された10点はどれであったかは分かっています。
なぜこの10点が追加されたものだと分かるのでしょうか。それを判別するポイントは「色」にあります。
「冨嶽三十六景」の「売り」となるのが、先に紹介した広告文に「藍摺一枚」とあったように、藍色で摺っているということでした。例えばこちらの「常州牛堀」のように、画面全体を藍色で摺った作品があります。
あるいは、「赤富士」の通称で有名な「凱風快晴」ですが、空だけでなく、富士山の稜線や題名、北斎のサインが藍色で摺られています。
それに対し、追加された「裏富士」の10点は、いずれも輪郭線が藍色から墨色に変更されています。例として「本所立川」を見てみましょう。
左上を拡大してみますと、題名や北斎のサイン、さらに人物の輪郭線がいずれも墨色で摺られていることが分かります。
題名の部分を比べてみると、色が異なっていることがはっきりとお分かりいただけることでしょう。
「冨嶽三十六景」のシリーズも最後の方になると、藍色で摺ることが「売り」ではなくなったようで、使い勝手の良い墨の絵具が用いられるようになったのです。
北斎の「冨嶽三十六景」を鑑賞する時、ぜひ、線の色にも注目してみてください。
なお、太田記念美術館では、6月26日まで「北斎とライバルたち」展を開催中。葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」とともに、歌川広重や歌川国芳、溪斎英泉など、ライバルたちの作品も併せて紹介します。北斎のことを一歩踏み込んで知ることができる展覧会です。ぜひお見逃しなく。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)