北斎が馬琴の指示を勝手に変更して作画していたという話
浮世絵師の葛飾北斎と戯作者の曲亭馬琴はタッグを組み、読本を制作しました。時には、北斎が馬琴の家に居候していたこともあるほど親密な関係でしたが、2人はとても気が合う仲のいいお友達という訳ではなかったようです。今回は、読本の制作をめぐる2人のエピソードをご紹介しましょう。
読本の挿絵は、戯作者がラフスケッチ(稿本)を描き、絵師はその指示を元に作画します。例えば、こちらの馬琴による『南総里見八犬伝』の稿本。右上には刀や槍で戦う人々、下の方には馬に乗って戦う人々が描かれています。
これを元に二代柳川重信が描いた完成作がこちら。手前に刀や槍で戦う人々、左上に馬に乗って戦う人々がいます。
稿本とは構図が大きく変わっていますが、絵師だけの判断ではありません。馬琴が、上と下の戦いの配置を変えてもよいと、稿本の右上に赤字で指示しているのです。絵師は戯作者の指示に基づいて挿絵を描く立場だったと言えるでしょう。
しかしながら、北斎はそのような馬琴の指示を忠実に守ろうとしなかったという逸話が伝わっています。
その根拠となるのは、馬琴が天保11年(1840)に殿村篠斎に宛てた手紙です。馬琴自身がそのことをはっきりと書いています(厳密には娘の代筆ですが)。
文化5年(1808)に刊行された馬琴作・北斎画の読本『三七全伝南柯夢』。その稿本(下書き)と印本(完成品)を比べた殿村篠斎が、人物の位置が右から左に変わっていたり、人数が増えたり減ったりしていることに気がつき、馬琴に尋ねたのでしょう。
手紙の中で馬琴は回答します。自分の指示通りに挿絵をちゃんと描いてくれる達者な絵師は、北尾重政、初代歌川豊国、歌川国貞の3人しかいない。北斎も達者だが、自分の絵として挿絵を描こうとするので、馬琴の指示に従わず、勝手に改変してしまうのだ、と。
残念ながら、『三七全伝南柯夢』の稿本は残っていないため、北斎がどの程度改変をしたのかはっきり分かりません。ちなみに、『三七全伝南柯夢』の画像は、早稲田大学古典籍総合データベースをご参照ください。
ただ、そんな勝手気ままな北斎に対して、馬琴もしたたかです。北斎の天邪鬼な性格を見越して、人物を右に配置したい時は、あらかじめ左に配置した稿本を北斎に手渡すのだと、手紙で告白しています。そうすれば、北斎は必ず右に描くであろうことを信じて。北斎の性格を熟知しつつ、手のひらで転がしていたのです。
この手紙を読む限り、北斎は自分の絵に強いこだわりがある自信家のように感じられるでしょう。
一方、このような手紙も存在しています。こちらは、『椿説弓張月』を制作していた最中に、北斎が馬琴に宛てた手紙です。
明日の朝は版元の平林庄五郎が、為朝を主人公とした『椿説弓張月』の写本3丁ばかりを持参しに来るので、これもご指示をお願いします、遠慮はご無用でございます、とあります。北斎は馬琴に挿絵のチェックを求めているのです。手紙文ですので、丁寧な文章で書いているということはあるでしょう。また、遠慮はご無用という言い方には、自分の絵に対する自信をのぞかせているのかも知れません。しかしそれでも、馬琴の指示をしっかりと仰ごうとする姿勢が感じ取れるのです。しかも、馬琴の妻を気遣う言葉までも添えて。
最初の手紙では、北斎は馬琴の言うことを全く聞かないように思われましたが、次の手紙を読みますと、馬琴に対してかなり礼儀正しく接しているようです。実際のところ、2人のやり取りはどうだったのでしょうか。実際にその現場を見て確かめてみたいものです。
なお、北斎が馬琴の家に居候していたというエピソードは、こちらをご覧ください。
参考文献:鈴木重三「馬琴読本の挿絵と画家」『絵本と浮世絵』美術出版社、1979年。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)
北斎の代表作、ならびに北斎と同時代に活躍した絵師たちの作品を比較した「北斎とライバルたち」展。8点ほどですが、馬琴・北斎のタッグが生み出した『椿説弓張月』の挿絵を紹介しております。ご興味のある方、ぜひご覧ください。