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小林清親と渋沢栄一がすれ違っていたかもしれないという話

以前のnoteの記事で、小林清親は低い身分ながらも幕臣であり、鳥羽・伏見の戦いで戦ったり、上野戦争の偵察をしたりしたということを紹介しました。

明治元年(1868)7月、徳川慶喜が静岡に転居すると、22歳の清親もそれに付き従い、静岡に移住します。はじめは三保村(現在の静岡市清水区)に寄留。おそらく12月18日前後に静岡に移り、翌明治2年(1869)5月には茶町1丁目(現在の静岡市葵区)に住んでいたことが確認されています(註)。明治3年(1870)4月には、浜名湖沿いの鷲津村(現在の湖西市)に転居しました。

註 漆原小公望「静岡に来たときの小林清親」『季刊 浮世絵』26号、1966年。

さて、2021年のNHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一も徳川慶喜に仕えたことで、幕臣となりました。戊辰戦争の際にはパリにいましたが、明治元年(1868)11月に帰国すると、徳川慶喜の恩義に報いるため、静岡藩に出仕することを決めます。翌明治2年(1869)11月に民部省に出仕するまでの短い間ですが、静岡で生活することとなりました。

もちろん、清親と渋沢栄一との間に面識があったという可能性はほぼないでしょう。しかしながら、1年にも満たないわずかな期間ですが、共に幕臣として徳川家のそばで生活をしていたのです。もしかしたら、どこかですれ違っていたことくらいはあったかも知れません。

さて、明治7年(1874)5月、清親は28歳の頃、故郷である江戸の町へと戻ってきました。6年ぶりというわずかな期間で、江戸は東京と名前を変えるだけでなく、清親が見たことの無い建物や橋が新たに建設され、町の風景は一変しました。自分が知っていた故郷が大きく様変わりしてしまったことに、清親はかなり動揺したことでしょう。

清親は、東京に戻ってから本格的に絵師の仕事に取り組むようになり、明治9年(1876)8月には光線画と称される風景画を版元・松木平吉から刊行して、人気を博します。

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ここで光線画の一図である「海運橋 第一銀行雪中」(画像は国立国会図書館蔵)を見てみましょう。この作品は清親が光線画を手掛け始めた明治9年(1876)頃の制作とされています。

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海運橋の向こうには、文明開化を象徴する、第一国立銀行本店の建物がそびえています。明治5年(1872)に三井組ハウスとして完成し、翌明治6年(1873)に第一国立銀行に譲渡されました。二代清水喜助による和洋折衷の擬洋風建築として話題となり、浮世絵にもしばしば描かれています。

例えば、武田幾丸の「東京海運橋兜街 三井組為換坐 西洋形五階造」を見てみましょう。見物客であたりはにぎわい、文明開化を素直に寿ぐ様子が伝わってきます。第一国立銀行が浮世絵に描かれる場合、新しい名所として華やかな世界が広がるのです。

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それと比べると、清親の「海運橋 第一銀行雪中」はどうでしょうか。空はどんよりと曇り、建物も雪で白く覆われているためか、落ち着いたしっとりとした雰囲気となっています。

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それと同時に、これはあくまで筆者の感想ではあるのですが、どこか寂しさやもの悲しさ、あるいはノスタルジーといったものも感じられないでしょうか。

第一国立銀行があった場所は、現在の東京都中央区日本橋兜町4丁目。江戸の町の中心地であった日本橋からすぐ近くの場所です。

清親にとって幼い頃から馴染みのあった場所に、気が付いたら見知らぬ洋風の建物が建っていたということになります。幕臣として時代の敗者となった清親にとって、江戸の町がどんどんと過去を捨て、文明開化を受け入れる姿を見るのは、かなりつらいことだったのではないでしょうか。だからこそ、清親が第一国立銀行を描くと、他の浮世絵師のように華やかにならず、どこか寂寥感や江戸への郷愁を漂わせる画面になるのではないかと、筆者は憶測しています。

ここでもう一度、渋沢栄一のことを思い出してみましょう。渋沢が、明治2年(1869)に東京へ移った後に行なった仕事の一つとして、第一国立銀行の設立の指導があります。さらに明治6年(1873)には大蔵省を辞し、第一国立銀行の総監役に就任するのです。清親とは違い、江戸の町が故郷ではなく、パリの町を実際に目にしている渋沢。東京の町が近代化していくことについて、喜びこそすれ、寂しさを感じることはおそらくなかったでしょう。

小林清親が渋沢栄一のことをどこまで知っていたかは分かりません。渋沢が第一国立銀行の設立に関わっていたことどころか、渋沢という存在さえも知らない可能性も十分に考えられます。

しかしながら、清親が第一国立銀行を描いていた時、同じ徳川慶喜に仕えた過去をもつ渋沢栄一の存在が頭をよぎっていた可能性も、ついつい考えたくなってしまいます。もしそうだとするならば、清親は、第一国立銀行、そして渋沢栄一に対して、どのような気持ちを抱きながら筆を握っていたのでしょうか。

小林清親と渋沢栄一。共に幕臣として徳川慶喜に付き従って静岡まで行った2人でしたが、そのわずか7年後、まったく違う視点で第一国立銀行という明治を象徴する建物を眺めていたかと思うと、そこに時代の大きな変化があったことを感じずにはいられません。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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