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新選組の土方歳三と戊辰戦争で共に戦った浮世絵師の話

明治時代のオシャレなファッションに身を包んだ、洋傘をさしている女性。花の髪飾りをつけ、洋書を抱えた手には指輪をはめています。

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作者は、楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ)。明治10年代後半から30年代にかけて、美人画の世界を牽引した第一人者として、その名前をよく知っている浮世絵ファンも多いことでしょう。

しかしながら、楊洲周延がこのような華やかな美人画を描く以前、ある大きな歴史的事件に関わっていたということは、案外知られていません。今回は、楊洲周延が、新選組の鬼の副長・土方歳三とともに戊辰戦争を戦ったというエピソードをご紹介しましょう。

今回の記事は、鈴木浩平氏による論文「楊洲周延と神木隊についてー手記『夢もの語』に記された箱館戦争での記録」(『浮世絵芸術』157号、2009年)を大いに参考しております。より詳しい情報を知りたい方は、J-STAGEで一般に無料公開されていますので、ぜひご参照下さい。

楊洲周延は天保9年(1838)生まれ。天保6年(1835)に生まれた土方歳三の3歳年下になります。周延は幕府の御家人であったという説がかつて広まっていましたが、現在ではそれは否定され、越後国にあった高田藩(現在の新潟県上越市)の下級藩士として、幼少の頃から江戸で暮らしていたことが明らかとなっています。

周延は武士でしたが、歌川国芳に入門し、浮世絵師の仕事を学びます。国芳が文久元年(1861)に亡くなった後は、豊原国周の門人となり、そのまま役者絵を中心とした歌川派らしい浮世絵を描いていました。しかし、慶応4年(1864)、周延の人生に大きな転機が訪れます。

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍が江戸城を無血開城すると、江戸にいた高田藩士たちの一部は新政府軍に抵抗するため、神木隊を結成し、彰義隊と合流します。周延もその一人に加わったのです。

慶応4年5月15日、上野戦争に参加した神木隊は、新政府軍と戦います。こちらは周延の兄弟子といえる歌川芳虎が描いた「信長公延暦寺焼討ノ図」(明治4年刊)。戦国時代の織田信長という体裁にしていますが、明からに寛永寺で繰り広げられた上野戦争の見立てとなっています。この中で周延は戦っていたことになります。

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12022 歌川芳虎2

しかし、上野戦争は一日で勝敗が決し、旧幕府軍が敗退したのはご存じの通り。その後、慶応4年8月、周延ら神木隊は、榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の朝日丸に乗り込み、北へと向かいます。

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上の図は隅田古雄作『戌辰の役函館戦記』(国立国会図書館蔵)より、暴風雨に襲われながら北を目指す艦隊の様子です。

一方、土方歳三は、新選組隊長・近藤勇が斬首された後、江戸、会津を経て、仙台にて榎本武揚と合流。蝦夷地を目指すこととなります。

さて、蝦夷地へとたどり着いた旧幕府軍は、明治2年(1869)3月22日、盛岡藩の宮古湾に停泊してた新政府軍の軍艦・甲鉄を乗っ取るため、襲撃を仕掛けます。宮古湾海戦と呼ばれる戦闘です。この時、回天という軍艦に乗って宮古湾へと向かったのが陸兵総督の土方歳三、そして、一兵卒の楊洲周延でした。この時、新選組は67人、神木隊は39人が搭乗していたそうです。

回天は甲鉄に接舷し、旧幕府軍の兵たちは敵の艦隊へ乗り込もうとします。

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上の図は『戌辰の役函館戦記』(国立国会図書館蔵)より、甲鉄に乗り移って攻撃する旧幕府軍。しかし、実際にはこの絵のようには上手くいかず、旧幕府軍は銃撃による激しい反撃を受け、多くの死傷者を出して撤退することになります。神木隊も3名が死亡し、6名が負傷。その負傷した1人が楊洲周延でした。怪我を負った周延は回天に乗り、土方歳三と共に函館に戻ります。

この後、新政府軍の攻撃は激しさを増していきます。土方歳三は明治2年(1869)5月11日、一本木関門で銃弾に倒れ、戦死。そしてそのわずか6日後の5月17日、旧幕府軍は五稜郭で降伏することになります。

この時の周延は、まだ宮古湾での負傷が全快していませんでした。おそらくかなりの重傷を負っていたと推測されます。その後、東京へ送られ、増上寺で謹慎の身に。さらに、高田藩に引き渡され、ようやく明治4年(1871)に赦免となります。しばらくして周延は東京に戻り、明治8年(1875)には浮世絵師としての活動を再開。冒頭で紹介したような美人画を中心に、数多くの作品を残すことになります。

ここに、周延が制作した興味深い浮世絵があります。「皇国官員鏡」という明治13年(1880)に制作された作品です。下記の早稲田大学図書館のデータベースをご参照ください。

明治天皇を中心に、岩倉具視、三条実美ら、当時の政権の中枢にいる人たちがズラリと並んでいます。興味深い歴史資料ではありますが、周延の浮世絵としてはそれほど面白味があるものではありません。しかし、この絵の中には、周延にとって因縁のある人物たちが描かれています。

まず、山田顕義と黒田清隆。彼らは五稜郭の戦いにおける新政府軍の指揮官でした。五稜郭で戦う旧幕府軍を打ち破った、周延にとって少なからぬ恨みのある人物たちでしょう。さらに、旧幕府軍を率いた榎本武揚の姿も見えます。榎本は五稜郭での降伏後に投獄されますが、明治5年(1872)に釈放され、明治政府に仕えることになります。この絵が描かれた明治13年には海軍卿に就任していました。

函館での敗戦から11年後のこと。はたして、周延はどのような思いで彼らの姿を浮世絵として描いていたのでしょうか。

最後に、先ほど図版を紹介した隅田古雄作『戌辰の役函館戦記』(国立国会図書館蔵)に触れておきましょう。明治15年(1882)の作ですが、実はこの挿絵を描いたのは、楊洲周延その人でした。宮古湾海戦のこの場面も、実際にその現場で戦った本人が描いているのです。

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残念ながら、『戌辰の役函館戦記』には、土方歳三の名前は出てきますが、その姿は描かれていません(ちなみに、土方才三(ひじかたさいぞう)と表記されています)。ぜひ周延に土方歳三の姿を描いてもらいたかったのですが…。この本にご興味のある方は、国立国会図書館のデジタルコレクションをご覧ください。

幕末から明治という時代の変革に身を投じた楊洲周延。もしその作品を美術館で見た時は、その激しい生き様のことも思い出してみてください。

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文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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