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葛飾北斎のご先祖様ってどんな人?

葛飾北斎を生んだ両親は、どのような人物だったのでしょうか?

父親については、川村氏、あるいは、幕府御用達の御鏡師(鏡職人)である二代中嶋伊勢の長男であったという説(註1)があり、断定には至っておりません。(後日、別記事にて紹介予定)

一方、母親については、小林平八郎の孫であったことが伝わっています(註2)。

小林平八郎とは、忠臣蔵で知られる吉良上野介に仕えた武士。元禄14年(1701)、大石内蔵助が率いる赤穂義士たちが吉良邸に討ち入りした際、吉良上野介を守るために奮闘しますが、惜しくも討ち死にしてしまいます。

こちらが小林平八郎を描いた、月岡芳年「つきの百姿 雪後の暁月 小林平八郎」です。

この小林平八郎には8歳になる娘がいました。平八郎の死後、親戚に預けられて成長し、娘を生みます。この娘が北斎の母親となるのです。北斎の母親について、それ以上詳しいことは分かっていません。ただ、北斎は自分の母親が小林平八郎の孫であると、いつも人に語っていたそうです。

こちらは葛飾北斎が描いた「仮名手本忠臣蔵 十二段め ようち」。両手に刀を持った武士が、3人の赤穂義士を相手に一歩も引けを取らず、戦っています。(槍が見えるので、襖の後ろに1人いるのでしょう)

北斎よりも後になりますが、歌川国芳が「忠誠義臣伝 古林瓶八郎兼義」という作品を描いています。古林瓶八郎は小林平八郎のことなのですが、画中の文章によれば、「武芸の達人」「四十七人の勇士にもおさおさ劣らぬ豪傑」で、「両刀を携へ神出鬼没の働き」であったと紹介されています。

画像は下のリンク先、早稲田大学演劇博物館の浮世絵データベースをご参照ください。

北斎の作品では名前が記されていないので、確実ではありませんが、二刀流で戦う武士を小林平八郎として描いていた可能性が考えられます。

また、北斎は『北斎忠臣蔵』(国立国会図書館蔵、京乙-355、『画本忠臣蔵』の修訂本)でも、二刀流で勇ましく戦う吉良方の武士を描いています。赤穂義士よりも、こちらが主役のようです。

小林平八郎の曾孫にあたる北斎。先ほどの歌川国芳の浮世絵では「誠忠の義士なれども惜しむべし 主君奸悪なるゆへに義名を失へり」と、小林平八郎が忠義の武士であったと同情する文章が記されていました。北斎も、ご先祖様は忠義に厚い立派な人物だったんだという気持ちで、忠臣蔵の浮世絵を描いていたのかもしれません。

なお、太田記念美術館では、6月26日まで「北斎とライバルたち」展を開催しています。葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」とともに、歌川広重や歌川国芳、溪斎英泉など、ライバルたちの作品も併せて展示中です。北斎のことを一歩踏み込んで知ることができる展覧会ですので、是非お見逃しなく。

註1 岸文和「北斎伝記の再検討ー新出史料『御鏡師中嶋伊勢御目見願』を手がかりに」『美術フォーラム21』34号、2016年。
註2 飯島虚心『葛飾北斎伝』蓬枢閣、1893年。

文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)

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