蔦屋重三郎の1号店が吉原遊郭のすぐそばにオープンしたという話
版元・蔦屋重三郎のお店があった場所といえば、通油町、現在の東京都中央区日本橋大伝馬町が有名です。
葛飾北斎が描いたのも通油町の店舗ですし、
現在、蔦屋重三郎「耕書堂」跡という看板が立っているのもかつての通油町です。
しかしながら、蔦屋重三郎が通油町に店舗を構えたのが天明3年(1783)、数え33歳の時でした。蔦屋の版元としての活躍は安永3年(1774)、24歳の時から確認できますので、約10年間、蔦屋重三郎は別の場所でお店を開いていました。
蔦屋重三郎が1号店を構えた場所は、吉原遊郭の入り口、現在の東京都台東区千束4丁目11番地付近です。
吉原遊郭が江戸の町のどこにあるかは、以前別の記事でご紹介しました。
遊郭は周囲が四角く囲まれており、その外には田んぼが広がっています。
蔦屋重三郎のお店があったのは、上の絵の右下あたり。遊郭の入り口となる大門までの通り、赤い四角で囲った「五十間道」と呼ばれる通りの南側となります。この通りには、引手茶屋が立ち並んでいました。
この場所で蔦屋重三郎はどのようなお店を経営していたのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
蔦屋重三郎は寛延3年(1750)、吉原に生まれました。義兄であろう蔦屋次郎兵衛が営む引手茶屋の軒先を借りて、貸本屋を営んでいたと推測されています(鈴木俊幸『蔦屋重三郎』若草書房、1988年)。
蔦屋重三郎の版元としての活動は、安永3年(1774)より確認できますが、こちらはその翌年に刊行された「吉原細見」と呼ばれる定期刊行された遊郭のガイドブックです。本の冒頭には、遊郭へと向かう五十間道に並ぶ店の名前が列挙されています。その中に「つたや次郎兵衛」の名前が確認できます。蔦屋重三郎はまさしくこの場所で仕事をスタートさせたのです。
その後、蔦屋重三郎は貸本屋以外の仕事にも手を広げていくことになります。別の記事にて紹介しますが、吉原細見の編集に関わるようになり、どんどんと業績を伸ばしていきました。安永6年(1777)冬には、独立した店舗をすぐ近くの場所に構えます。
こちらは安永8年(1779)に刊行された吉原細見。蔦屋次郎兵衛の4軒隣りに、「細見板元本屋 つたや重三郎」の名前と記されており、独立した本屋として開店していることが分かります。吉原遊郭へと向かう大勢の男性客たちは、必ず蔦屋重三郎の店の前を通っていたのです。
では、お店の外観はどのようだったのでしょうか。
こちらは天明4年(1784)に刊行された大田南畝の『此奴和日本』(『寿塩商婚礼』の改題再摺本)という小説です。遊郭の入り口のそばに、蔦屋重三郎の屋号である「耕書堂」を看板にした本屋があります。
こちらがその拡大図。ただし、この小説、中国の遊里が日本風になったというフィクションです。そのため、実際の蔦屋重三郎の店舗をそのままに描いているものではありませんが、おそらくこれに近い店構えだったと推測されます。
また、こちらは、歌川豊春の「浮絵和国景跡新吉原中ノ町之図」。蔦屋重三郎が仕事を始めた安永年間頃の制作です。
吉原遊郭の内側から大門を眺めた作品ですが、大門の先に五十間道に立ち並んでいる店の様子がうかがえます。本屋らしき建物は見えませんが、蔦屋重三郎の店があったのはまさしくこの付近。蔦屋重三郎の1号店は、このように大勢の人でにぎわう遊郭の入り口に店を構えたのでした。
以上、吉原遊郭の入り口にあった蔦屋重三郎の1号店を紹介しました。では、蔦屋重三郎はこの場所で版元としてどのような商売をしていたのかでしょうか。それについては、また別の記事で改めてご紹介いたします。
参考文献:鈴木俊幸『蔦屋重三郎』若草書房、1998年。
文:日野原健司(太田記念美術館主席学芸員)